1991年、筆者は既にUNIXのシステム管理者およびライターとして、ひとかどの経験を積んでいた。このためLinus Torvalds氏がMINIX Usenetニュースグループ(comp.os.minix)に投稿した、「私は今、386(486)ATクローン機向けの(無償の)OSを開発しています(単なる趣味であり、GNUのように大規模でプロフェッショナル向けのものではありません)」という、今に語り継がれるメッセージも目にしていたはずだが、その時は気にも留めていなかった。多くの人々が似たようなことを述べていたが、成果らしい成果はほとんど上がっていなかったのだ。しかし、Linuxは違っていた。
Linuxは、今日ではMicrosoftからも愛される存在となっているが、黎明期から順風満帆というわけではなかった。
Torvalds氏は、周囲の人々を巻き込んで開発を進める才能を持った、理知的なプログラマーだ。そのこととGNU General Public License version 2(GPLv2)の採用が組み合わさって、Linuxはスーパーコンピュータからスマートフォンに至る、ありとあらゆるもののOSとして選ばれるようになった。しかし最初からそういう道を歩んでいたわけではない。
Ted T'so氏は北米最初のLinuxカーネル開発者だ。同氏は1991年9月、Linuxカーネルのバージョン0.09から開発に参加した。当時、Linuxをダウンロードするには、フィンランドに設置されていた低速のFTPサーバに接続するしか方法がなかった。このため同氏は、個人的に所有していたデスクトップマシンを用いて、Linuxをホストする北米初のFTPサーバを設置、運用したのだった。
T'so氏は現在、Googleに籍を置いている。同氏は、Linuxの黎明期に同プロジェクトが軌道に乗ったのは「石のスープ方式、つまり関係者全員がそれぞれに興味を持っており、プロジェクトの遂行や問題解決に向けて、それぞれの力を持ち寄るという方式」を採っていた点もあったと回顧している。
IBMのディスティングイッシュト・エンジニアであり、LinuxプログラマーでもあるJames Bottomley氏の経歴は、Linuxから始まっている。1992年、同氏はケンブリッジ大学で物理学と数学の博士過程に在籍していた。同氏は当時を振り返り、次のように述べている。
「Pentium」搭載PCの価格は、当時一般的だったSun Microsystemsの「SPARC」搭載ワークステーション(あるいはDECの「DEC Alpha」や、われわれの評価したその他のコンピュータシステム)と比べると10分の1だったにもかかわらず、Pentiumの新しい浮動小数点演算処理装置(FPU)により、計算物理学分野で同等のパフォーマンスを発揮すると約束されていた。このため、既存設備と統合するためのUNIXシステムが必要となった際、私は高価なUNIXシステムを追加購入するのではなく、Linuxによる運用を前提として3台のPentiumシステムに投資するよう学部を説得した。