The Open Source Revolution Will Not Be Televised

八田真行(Masayuki Hatta) 2005-06-01 07:44:28

「革命はテレビ中継されない」(The Revolution Will Not Be Televised)と歌ったのは、「黒い(ボブ・)ディラン」と呼ばれたアメリカの歌手・詩人、ギル・スコット=ヘロン(Gil Scott-Helon, 1949-)である。オープンソースについて考えるとき、私がすぐ思い出すのがこの曲のタイトルだ。

オープンソース、あるいはその象徴としてのGNU/Linuxの成功については、「革命」(revolution)という形容がされることが多い。例えば、Google で「オープンソース革命」を検索してみると、オープンソースの名付け親の一人でもあるエリック・S・レイモンド(Eric S. Raymond, 1957-)が2001年に京都産業大学で行なった、そのものずばり「オープンソース革命」と銘打つ講演の情報が出てくる。オープンソースを扱った書籍としては最も初期のものに属するグリン・ムーディ(Glyn Moody)の「Rebel Code」も、副題は「The Inside Story of Linux and the Open Source Revolution」だった。そういえば、2001年当時のオープンソース・キーパーソンが総出演した「RevolutionOS」なんていうドキュメンタリー映画もあった。実は未見なのだが。

そんなわけで、オープンソースが何らかの意味で「革命」だった、ということ自体は、どうやら世界的なコンセンサスらしい。革命というからには何かしら急激な変革があったわけだ。この点に関し、少なくとも日本では、オープンソースが何を変えたのか、あるいは変えつつあるのかについて、極めて不十分な理解や報道が横行しているように思われる。

オープンソースでまず目を引く特徴はプログラムのソースコードを公開するという点であろう。ソースがオープンだからオープンソース、というわけだ。これは必ずしも間違った理解ではないし、確かにオープンソースが流行るまでは、ソースコードを公開せず、複製や改変を認めないソフトウェアが主流だった。とりわけ、営利企業がソースコードを公開するなどということは想像しにくかったと思う。だから、これだけでも革命の名に値するのかもしれない。

しかし、それまでソフトウェアの中身を非公開にして、複製の許認可を握ることでライセンス料収入を得てきた営利企業が、ポンと自社の稼ぎ頭のソースコードを公開し、無料で利用できるようにする、本当にただそれだけならば、それは革命というよりは単なる自殺行為である。美談にはなるかもしれないが、合理的な行動と言えない。その意味で、「オープンソースの定義」がその冒頭で、「『オープンソース』とは、単にソースコードが入手できるということだけを意味するのではありません」とわざわざ強調しているのにはそれなりに意味がある。だいたい、オープンソースなどという話が出てくる十数年前から、フリー(自由な)ソフトウェアは存在したではないか。

オープンソースが革命である所以は、単にソースコードを公開するとかしないとかという話ではないのだ。ライセンス・ビジネス以外の、持続可能なビジネスのオルタナティヴを、ある条件の下で適用可能な戦略パッケージとしてわかりやすい形で提示したと言うことなのだ。となると話は途端に複雑になる。オープンソース革命をきちんと理解するには、ソフトウェア産業におけるビジネスモデルの変革やプログラマという職種の変化も含め、いろいろな要素を考慮に入れなければならないからだ。

というより、そもそもオープンソース革命は、ここ10年ほどの急激な技術・社会変化の結果であって、理由ではないのである。その意味で、たとえ「オープンソース革命をテレビ中継」できたとしても実はあまり意味がない。オープンソースは氷山の一角に過ぎないからだ。オープンソースの意義を真に理解するには、その背景を深く掘り下げる必要がある。

こういったことは、(私を含めた)当事者も実は良く理解していないことだし、少なくとも今までは、ほとんどまとまった形では語られてこなかったことだとも思う。報道されることもあまりない。革命はテレビ中継されない。ありとあらゆる意味で、その通りだ。しかし、今起きていること(のほんの一部)を記録し、後に残すことはできるかもしれない。それが、本欄でオープンソースとその周辺の現在を追いかけてみようとする動機である。

※このエントリはZDNetブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および ZDNet編集部の見解・意向を示すものではありません。

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