Old Folks

八田真行(Masayuki Hatta) 2005-11-30 17:38:18

前回の執筆からずいぶんと日が空いてしまった。今後は短めのものを頻繁に掲載するつもりなので、宜しくお付き合いください。

上村圭介氏のブログを拝見した。今年のWSIS(とその関連イベント)におけるリチャード・M・ストールマン氏の相変わらずの獅子奮迅ぶりについては他の情報源(例えばここ)からも耳にしていたのだが、苦笑せざるを得ない。

思えば2000年にストールマンが来日した際、私は懇親会を設定して青山の飲み屋に連れて行ったのだが、これはなかなか興味深い体験だった。まずは定番、日本の某著名ハッカーU氏が「Linux」と口を滑らせたのをすかさず咎め「それを言うならGNU/Linuxだ!」と軽いジャブが飛んでくる。さらには開始早々、「俺は眠いので帰る!」と言い出す始末で、見事にKOされたものだ(尻のポケットにはもちろん白いリコーダーが刺さっていた)。裏表は全く無いのだが、まあ個人としてはそういう人です。「最後のハッカー」にふさわしい超俗ぶりである。

思えばオープンソースないしフリーソフトウェアの歴史は変人奇人の歴史でもあった。もちろん常識人のハッカーがいなかったわけではないが、とりわけその初期において重要な仕事をしたのは、よく言えば個性的、悪く言えばやや常軌を逸した人たちが多かったように思われる。どう見ても通信教育で学んだとしか思えない空手で徒手空拳リバタリアンの夢を追う男、自分が関わった(あるいは創始した)プロジェクトの大半から壮絶な喧嘩の末除名された男、グラント頼りのプロジェクトを運営していながら政府を批判して資金援助を打ち切られた男、等等。結局のところ、基本的にどんな奴が作ろうが動いて便利ならよいというソフトウェアならではのアナーキーな性質が、社会への適応性に多少問題のある彼らが十全にその力を発揮できる機会を用意したということなのだろう。だとすれば、それは幸福な出会いだったと言う他ない。

ただ、オープンソースやフリーソフトウェアがここ数年市民権を得るにつれて、そういった変人奇人が開発者に占める割合は、相対的にも絶対的にも減少の一途をたどっているような気がする。そのこと自体は、表面的には単なる世代交代というだけの話で、元来は良くも悪くもない。しかし、彼らいわばハッカー第一世代に共通して存在し、有能だがやや没個性的な企業人ハッカーを中心とした、現在主流を占めつつある世代には希薄なものがあると私は思う。それは、「コミュニケーションへの強靭な意志」のようなものだ。

コミュニケーションといっても、他者を理解するとか他者の事情を汲むとかいうような生やさしいものではない。彼らは、基本的に自分自身の考え(あるいは生理的な感覚といったほうが良いかもしれない)を他者に理解させることにしか関心がない。そのための手段は、ソースコードという形をとることもあったし、ライセンスという形をとることもあったし、あるいはその他の文書やアジテーションという形をとることもあった。しかし背後には共通して、何とかして他者に自分を知らしめたいという強烈な欲望があったと思う。そのためには、自分の考えをより明瞭なものとし、あるいは他者からのフィードバックを受けて自分の考えをより堅固なものにしていくため不断の努力も怠らない。そして何より、相手が間違っていると思ったことについては容赦ない攻撃や反論を加え、議論を巻き起こしてきた。

元来、こういったことはコストばかりかかることで、よほど攻撃衝動か暇をもてあましている人以外にはさほど面白くはない。むしろ、周りの環境は変えられない与件として、ひたすらハックにいそしんでいたほうがラクで楽しくて金も儲かるはずだ。しかし、それでもなお周囲への違和を表明し、波風を立てる、そんな過剰さが彼らを特徴づけていたと私は思う。当人たちがそうはっきり意識していたかどうかは今となっては誰にも分からない。しかし、突き詰めればこの意思によって、彼らは私たちに道を切り開いたのである。

このあたりの感覚について、昔、Debian Projectの創始者イアン・マードックがうまく表現していた。一部を引用する。

その反面、最近のオープンソースを巡る論争でも明らかになったように、ストールマンが自説を曲げない場合、彼はいつもそれにより立場を強固にするための方法を模索していたのだ。「ストールマンの主な性格上の特徴の一つに意見を変えないことがある」と Ian Murdock は言う。「もしそれだけの時間が必要なものなら、彼の立場に人々が同調するまで十年でも彼は待つだろう」

Murdock 個人としては、その変わらぬ気質こそがすがすがしいし、貴重だと考えている。ストールマンはもはやフリーソフトウェア運動の唯一の指導者ではないかもしれないが、彼は今なおフリーソフトウェア・コミュニティの北極星なのだ。「彼の意見が首尾一貫しているのは前から分かっているだろう」と Murdock は言う。「大抵の人達はそうはいかない。君が彼の意見に同意するにせよしないにせよ、君は彼の意見を真に尊重しなければならない」

ストールマンのみならず、彼ら「北極星」が果たしてきた役割というのは、たぶん定量的に計測できるものではないし、私たちが普段意識するようなものでもない。おそらく、彼らを失って初めて分かるような性質のものではないかと思う。あえて言えば、それは彼らが見ている以上生半可なことはできないというようなある種の緊張感だ。あまり理性的な話ではないと思われるかもしれない。しかし、ああいった「北極星」たちが睨みを利かせていると思うと、人はあまりいい加減なことはできないのではないだろうか。少なくとも私はそうだ。彼らは、その存在自体がある種の規範となっていると私は思う。

あと数十年経って、リーナスもストールマンも死に絶えた世界のことを考えることがある。そもそもその頃には、技術的な進歩によってハックだのオープンソースだのといった概念自体が消失しているかもしれない。しかし、もしそういったものがまだ残っていたとして、なおバザールは繁栄しているだろうか。それとも「北極星」の大半を失ってケイオスの海を迷走しているのだろうか。私には分からない。

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