そんなボクに愛を語る資格はない

八木大造(Daizo Yagi) 2008-09-10 15:11:08

 22のとき、会社を辞めて宣教師になった。学校まで行かせてくれた上司をがっかりさせた。無宗教の母には教会に息子を奪われるような思いをさせてしまった。社会の厳しさを身に染みて知りながら、仏や神を信じる敬虔な父も、今回だけは突飛な息子の行動に押し黙った。夜も眠れず心配する父に「心配ご無用。オレは人生の大学にいってくる!」なんて、一方的な言葉を残して飛び出した。あの頃のボクは今よりずっと若く自分なりの使命感とか、やりたいことが先に立ち、大切な人に上手に説明ができなかった。ま、この点は今もさほど改善されてはいない・・・。とにかく、この時の父の顔を思い出すと、今でも胸がつぶれそうになるのです。

 2年がたち伝道が終わった。そんなボクを上司は再雇用してくれるし、両親は「怪我もせず無事に帰ってきた」と言って喜んでくれた。宣教師になって、見ず知らずの人を愛して、人にキリストの愛を伝えるんだ!なんて意気込んでいた人間が、実は一番身近で大切な人を上手に愛せていない・・・なんとも本末転倒な話だ。そんな簡単なことが、やっとここ数年、自分が上司になったり、親になったりして、ようやくわかるようになった。だから、そんなボクに愛を語る資格はない。

 こんな恥ずかしくカッコ悪い経緯がありながらも、宣教師としての2年間は本当に有意義だった。「人生はそんなものだ。お父さんもそーだった。悲しいかな結果的に誰かを踏み台にして人は成長する。だから、お前も子供たちや会社の若い人たちの踏み台になってやりなさい。」生前に語ったこの父の人生観に、ボクは胸が締め付けられた。

 39のボクは、社会の中間層である。結果的に、まだ誰かを踏み台にしている側面もあれば、誰かの踏み台になっている側面もある筈だ。そーゆー視点で、クレオの新規事業担当者としての2年間を振り返ってみると、このブログに一部を書かせて頂いたが、多くの先輩方がボクを育てよう、育てようとしてくれている。その背中はまるで「オレを踏み台にしろ」と言っているかのようだ。ボクが若い人の踏み台になってやれてるかどーかは自分ではわからない。1つ思うこと。それは結果的に踏み台にするにしろ、なるにしろ、おおよそ初めから「利用してやる」という魂胆の人とは関わりを持ちたくない。そういう人でも受け入れるのが愛だという人がいるかもしれない。わるいがボクはそーは思わない。だから、そんなボクに愛を語る資格はない。と言っておく。(つづく)

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