グローバリゼーションとは均質化
グローバリゼーションの行き着く先は均質化であるという議論がある。グローバル化によって財やサービスは、国境を越えて提供され、どこへ行っても一定レベルの品質が担保される。インドでもマクドナルドは、マクドナルドだし、スターバックスはスターバックスである。つまり、グローバリゼーションは、突き詰めるとグローバリゼーションという言葉自体が意味を成さなくなるという矛盾を生む。
昨年の10月に参列したインドでの結婚式、ここで民族衣装を着ていたのは、自分を含めてほとんどが海外からの参列者であった。インド人は実は普通にスーツを着ている人が大半だったのである。つまり、我々はインド的なものを求めてインドの結婚式に参列したのだが、もはやそこにインド的なものはなく、インド的な雰囲気を作り出していたのはむしろ外国人であったという皮肉である。(もちろん、これは一側面を捉えての考察であって、インド的なところも、まだまだ多分にある)
インドへ赴任して、日本と同じようなレベルのインフラが整った住居で日本食を食べられれば、住むには問題ないかもしれない。しかし、それはインドに住んでいると言う実感を失わせ、何か物足りない思いを残すであろう。
全てが一方向には進まない
グローバリゼーションには、それによって生み出される価値と、それによって失われる価値があるという認識が必要である。グローバリゼーションによって、財やサービスは均質化され、それは経済のグローバル化を促し、また人々の移動をも容易にする。
しかし、それに伴って地域の特殊性は失われて文化的な多様性も損なわれることとなる。つまり、多様性が持っていた価値は損なわれていくのである。例えば最近、インドを始めとする新興国の現代美術が注目を集めているが、もしそこに文化的な背景を見出すことが出来なければ、もはやそれらに注目する理由も無くなってしまう。
過去10年に渡り、インドの都市名を外国占領下の名称から、インド固有の名称へ戻す動きが活発であった。例えば、ボンベイをムンバイに、マドラスをチェンナイに、など。これらは、急速なグローバリゼーションに晒されるインドにおいて、むしろ自分たちの文化を守ろうという意識の表れとみることができる。グローバリゼーションの流れが止まることはないだろうが、世界は一方向だけに進むとは限らないのである。