#4:GNOME vs. KDE
Linuxにかかわっている方であれば、GNOME vs. KDEの論争がかなり昔から続いていることをご存知だろう。現在行われているほとんどの論争では、双方の陣営を支持する人々が、それぞれに存在している。しかしこの論争において、そのようなことはあり得ないのだ。GNOME vs. KDEの論争は激しいものであり、非武装地帯を越えて社交辞令のやり取りが行われるなどということはこれまでも、そしてこれからもないのである。GNOMEユーザーたちはKDEを毛嫌いしている一方、KDEユーザーたちはGNOMEを毛嫌いしているのだ。そしてその論争はインターフェースまわりだけに留まらず、憎しみに満ちた矛先が、ウィジェット作成に用いられるツールキットにまで向けられているのである。
GNOMEユーザーは、KDEの採用しているツールキット(Qt)がかつてはプロプライエタリなものであったという事実に固執している。しかし現在では、LGPLライセンス版もリリースされているため、こういった指摘はもはや妥当性を欠いたものとなっている。また、双方の陣営はそれぞれ、相手方のデスクトップ開発に用いられている言語が劣っているとも主張している。GNOMEはCに軸足を置いている一方、KDEはC++に軸足を置いているのだ。しかし、いずれの言語にもそれぞれメリットとデメリットがあるのである。このため最終的には、エンドユーザーから見たルックアンドフィールの問題に帰結する、つまりは個人の主観がすべてだということになるのだ。
これらの陣営の鬨の声は?GNOME陣営の「KDE 4はWindowsのようだ!」に対してKDE陣営も「KDE 4はWindowsのようだ!」である。これをどう解釈するのかは、あなた自身で考えてほしい。
#5:ソーシャルネットワーキングサイト vs. 嫌悪派/マネージャー
ソーシャルネットワーキングは今や非常に大きな存在となっているということは否定しようがない。会う人皆がブログをやっていたり、Facebookに自分のページを持っていたり、Twitterでつぶやいていたり、LinkedInに参加していたりするのである。もちろん、あなたが最新のコミュニケーションツールを避けている、もしくはマネージャーであるという場合は例外である。ソーシャルネットワーキングサイトは、莫大な時間を吸い込むという性質がある一方で、非常に優れたネットワーキングおよび/あるいは広告の形態ともなっている。ソーシャルネットワーキングサイトを嫌っている人々は、そういった価値をほとんど、あるいは一切見出せないのである。これに対して、友人のいる人々は価値を認めている。ただ、Facebookには一定の価値があるものの、職場でも価値があると言えるのだろうか?ここが意見の大きな分かれ目の1つである。職場のブラウザでソーシャルネットワーキングサイトにアクセスしながら生産的な仕事を行うことは可能なのだろうか?
これらの陣営の鬨の声は?ソーシャルネットワーキングの賛同者たちの「私には500人の友達がいる!(笑)」に対して、マネージャー/ソーシャルネットワーキング嫌いは「お前はクビだ!(笑!)」である。
#6:vi vs. Emacs
ここで少し過去を振り返ってみることにしよう。この論争は、今ではごく一部の人々を除けば、過去のものとなっている。しかし、そうだからと言って、この論争によって普通の人々から引き出された労力や嫌悪、怒りがなかったことになるわけではない。遠い昔の話であるが、筆者にも苦い思い出がある。筆者は、Linuxユーザーグループ(LUG)のミーティングにおいて、こういった論争のいずれの陣営にも加わろうとしなかったためにその場から追い出されそうになったことがあるのだ。Picoユーザーであったため、どちらの陣営からも白い目で見られたのである。
いずれのツールも使い勝手は良いというところが、この論争の興味深い点である。ただし、どちらも使い方を覚えさえすればという条件が付いているのである。そして、そのことこそがこの論争の鍵なのだ。vi vs. Emacsの論争は筆者にとって、どちらの使い勝手が劣っているかという点に争点が置かれているように感じられるのである。Pico(そして現在ではNano)を長年使ってきている筆者にとっては、viとEmacsのいずれにも、エディタとしては過剰とも言える機能が搭載されているように感じられるのだ。ああ、目に怒りの炎を燃え上がらせた双方の陣営のメンバーが、「『ただの』エディタなんかじゃない!」と叫んでいる様子が目に浮かぶ。
これらの陣営の鬨の声は?どちらの陣営の鬨の声も、あまりにも複雑な正規表現を使っているため、並の人間には理解できないはずだ。