そう、帳票とは、“記録”そして“証拠”だ。これから行われる、あるいはすでに行われた動きが確かにあったということを形として記すもの、それが帳票の本質である。
なぜそうするのか――それは企業が人間の集合体で動くものだからだ。何もかも一人の人間が行っていて、そこで完結しているのなら、その人間がすべて覚えていればよく、別に記録も証拠も残す必要はない。しかし、企業は人間の協業で動く。だからそこでは情報を共有する必要がある。その情報共有の媒体が、帳票なのである。
冒頭で私が怒られたのもこのためだ。宣伝部が商品を借りたという事実は、私と商品を貸してくれた売場の担当者はもちろんわかっている。しかし、商品だけ動かして、私たち二人がいなくなると、それ以外の人間にはなぜその商品が宣伝部にあるのか、まったくわからなくなってしまう。だから伝票が必要だったのだ。
そして、企業もまた、それ単体では成り立たない。企業というのは、企業と企業との間で取引をした結果、収益を得られれば存続できるという組織。別名、法人という。法律の規定により人としての権利能力を付与されたものである。法律に照らされるということで、行われる動きを記すことは、記録として以上に証拠として大きな意味を持ってくる。誰に対しても形として示すことのできるものとして、帳票が重要な役割を果たすのである。
人間が秩序だった社会生活を営むに至った“進化の証し”
少し話は横道にそれるが、行動を形として残すというのは、ある意味人間にとって本能なのだろうか。人類の文字の歴史では、現在知られているかぎり、古代エジプトのヒエログラフと古代メソポタミアの楔形文字が最古とされ、どちらもほぼ5000年前にその端を発するという。人類自身はクロマニョン人から数えても約20万年の歴史を持つ可能性があるというから、書き残すことが本能であったとはいえないようではある。
ただ、エジプトの遺跡には王の姿とともにヒエログラフの記述があり、“目には目を”の記述で有名なハンムラビ法典は楔形文字で記述された。前者は文字どおり記録で、後者はあるべき規範の共有で、懲罰のための証拠であるともいえる。人類が進化し、文明の誕生とともに文字が生まれ、その文字が記録や証拠用途に使われたというのは感慨深いものがある。
そこから営々5000年。組織人の行動を記すものとして、帳票というスタイルが完成されるに至った。これは人間が秩序だった社会生活を営むために育て上げた“進化の証し”なのである。