国後島に建設予定のディーゼル発電所の競争入札において、公正な入札を妨害したという容疑で外務官僚2名と三井物産社員3名が逮捕された。このとき、受注予定金額の99.9%である約20億円で三井物産が落札したこと、受注意思のなかった他の商社を入札に参加させ、入札を形骸化させたことなどが捜査によって明らかになっている。
事件を受け、メディア各社が三井物産に会見を求めたが、「“そういう事実はいっさいございません”という、今から振り返ると木で鼻をくくったような対応で会見を行わなかった」(槍田氏)という。
結局、こうした対応も含めて世間からの三井物産に対する印象は悪化、当時の経営陣は退任に追い込まれ、槍田氏が社長に就任することになる。
「商社には“グレーな案件をハンドルすることが器量のうち”という風潮がたしかにある。このコンプライアンスに対する甘い意識を変えないと同じことがまた起こってしまう」と、槍田氏は社長就任時の気持ちを振り返っている。また、経営陣と現場の風通しの悪さもコンプライアンスの整備を危うくさせている一因と考え、改善のために「CEOメールや車座など、コミュニケーションチャネルを太くするためのあらゆる施策を試みた」としている。当時の槍田氏のコンプライアンスに対する取り組みはメディアでも話題になり、意識改革セミナーの講師などに呼ばれることも多かったという。
だが、そうした努力がすべて水泡に帰すような事件が2004年11月に起こってしまう。いわゆる「DPF問題」、同社が販売していたディーゼル車向けのススの浄化装置(DPF、ディーゼルエンジンの排気ガスに含まれる粒子状物質を減少・除去する装置)の指定申請時に、虚偽のデータを作成・提出したという事件だ。
ススの補修率が基準値に達していない製品だったにもかかわらず、データを捏造して販売し、発覚時にはすでに東京都などの地方自治体、国土交通省、環境省、関連団体ほかから補助金を受けており、累計で9000ユーザー、2万1500台を販売していた。
ディーゼルエンジンのススを除去するのは非常に難しい技術であり、大手企業はほとんどがあきらめている状況にあって、三井物産だけが最後の大手として残っていた。その信頼を大きく裏切るデータ捏造事件の報告を、奇しくも自身が講師を務めるコンプライアンス関連セミナーの直前に聞いた槍田氏は、「国後島事件から、あれほど頑張ってきたコンプライアンスへの取り組みとは何だったのか」と愕然としたという。
社長を辞任することも考えたが、「リーダーとして、たとえ会社が潰れても、どんなに費用がかかってもこの事件を解決する」と決意した。
国後島事件とDPF問題、この2つで三井物産はすでにツーストライクに追い込まれた。次はもうアウトしかない。どんな結果に陥ろうと、解決に向かって顧客が満足するような努力を続けるしか道は残されていなかった。
最終的には総額500億円近く、時間では2年の年月を解決に必要とした。事件後、40以上の自治体から指名停止を受けるという厳しい措置が続いたが、いちばん最後に東京都から指名停止の解除を受けたとき、「ああ、やっと終わったんだ」と感慨を新たにしたと振り返っている。
「良い仕事」をスローガンに大胆な社内改革を断行
あれほどコンプライアンスに力を入れていたはずなのに、なぜこうした事件が起こってしまったのか。