政府と米国家安全保障局(NSA)に関しても、同じように考えるべきなのかもしれない。結局のところ、われわれは敵からの執念深く終わりのない攻撃に対する警戒という恩恵を受けているのだし、政府は道路や橋、警察や消防サービスを提供し、国民を(比較的)安全に守るためのあらゆる規制を設け、さらには長年にわたって研究し、それがインターネットやGPSのように変革を起こす技術につながることもある。
確かにその通りだ。米国政府の取り組みがなければ、GPSもインターネットもなかっただろう。
もちろん、リスクはある。熱意が暴走した検事や警察官が、収集した情報を徹底的に調べて、インターネット越しにやりとりされた情報に基づいて、国民を起訴する可能性もある。
しかし、Facebookのような企業にも、やはりリスクはある。例えば6月、Facebookは何百万人ものユーザーの連絡先情報を、本来許可されていない「友達」に公開してしまった。
仮に、あなたが変質的な人物につきまとわれており、その人をブロックしたところだとしよう。そして電話番号を変えて、Facebookを使っている仲のいい友達にだけ渡したとする。彼はその新しい電話番号を、自分のFacebookアカウントに入力するだろう。その際、Facebookは古い番号と新しい番号をリンクしてよいと判断し、古い番号を持っている人であれば誰にでも(ブロックされたストーカーも含めて)新しい番号を渡してしまうということが起きたわけだ。大したプライバシーだ。
Facebookは謝罪し、このバグを修正したと述べている。とは言っても、Facebookのデータ収集と集約の取り組みが、テロリストや敵に市民が殺害されるのを防ごうとしている政府よりも恐ろしいものに見え始めたことは事実だ。
この記事のタイトルで、私はNSAとFacebookのどちらがひどいかという問いを掲げた。私の意見では、データ収集は瓶に閉じ込められた魔人のようなものだ。それをやっているのが誰であろうが、一度外に出してしまえば危険が降りかかる。原子力の研究が爆弾と放射線治療の両方を生み出したように、巨大なビッグデータの収集は、害をなす場合もあるし大きな価値を提供してくれることもある。
われわれユーザーは、Facebookが自分の友達について有益な情報を提供するには、それらのデータを収集する必要があることを前提として受け入れている。私は、米国の対テロ組織が、米国民の生命を守るというはるかに重要な仕事のために、データを収集する必要があることを受け入れる方が、ずっと重要だと認めざるを得ない。
どちらが悪いか?どちらとも言えない。しかし、誰かの手にそういった情報があることは、本当に心配だ。
この記事は海外CBS Interactive発の記事を朝日インタラクティブが日本向けに編集したものです。