しかし、考えてみて欲しい。私はGoogleに対して、自分の過去を1982年にまでさかのぼって引っかき回し、私が21歳の時にオンラインでした議論を公表していいとは許可していない。1982年には、このような個人情報の世界的なデータベースが出来上がるだろうという兆候はまったくなく、われわれが書くものは、ある程度のプライバシーを前提としていた。
しかし、GoogleはUSENETのデータベース全体を購入し、これをオンラインで公表した。Googleが公表したものの中には、1982年にある21歳の若者が発言した内容が含まれていた。つまり私だ。残念ながら、彼らが公表したものは、特にまずいものではなかった。セックスにも、アルコールにも、ドラッグにも関係がない。当時私はロックンロールには傾倒していなかったし、音楽がいつかは消える自分の命を救ってくれるとも思っていなかった。残念ながら、私が議論していたのは、「iAPX 432」と呼ばれるIntelのオブジェクト指向プロセッサについてだった。
私は30年前でさえ、相当なギークだったのだ。そのことに特に問題はない。しかし、私はその情報を公表していいという許可をGoogleに与えていない。
また、Yahooであれ、Googleであれ、Yandexであれ、スパイダーに私のウェブサイトを這い回っていいとは許していない。しかし彼らはそれをやるし、Googleがそうしなければ、われわれが書いたものが、誰かに読まれることはないだろう。ポイントは、彼らはそこにいて、やりたいことをやっているということだ。これまでそこには許可は関係なかった。
悪をなすな
1950年代の米国人は、一般的に言って、1960年代の米国人よりも政府を信用していた。ベトナム戦争と、ニクソン大統領の辞任が、政府が国民からの信頼を大きく失う原因となった。
1950年代には、政府を信頼するのがファッションだった。地元の警察官が友人であると考えることは、政治的に受け入れ可能だった。
しかし1960年代にはその信頼が大きく揺らぎ、それ以降、政府は国民の信頼を失い続けている。警官やFBI、米中央情報局(CIA)といった存在は、まともな人間であれば信頼しないのが普通になった。
そこに、すべてをフラット化するインターネットが登場した。誰もがウェブページやブログを持ち、存在を示し、声を上げることができた。誰もが、お互いに瞬時に結びつくことができた。そして、サービスは無料だった(そして、百万長者のSteward Brand氏の言葉を信じるとすれば、ソフトウェアも「無料になりたがっている」)。再び信頼することがファッションになったが、その対象はGoogleであり、Facebookだった。
大きなインターネット企業は、もともとは嬉しい誤算に過ぎなかった。Googleはもともと、大学生が作ったウェブスパイダーだったし、Facebookはハーバードの学生寮でコーディングされたものだった。最初は、何十億ドル稼ごうとするものではなかったのだ。共有、つながり、ソーシャルが、当時信じられていた自然の摂理だった。
そして、Googleは「Don't be evil」(悪をなすな)というスローガンを掲げた。現在のGoogleが、広告業界、新聞業界を荒々しく蹂躙し、われわれがオンライン上で読んだり知ったりするあらゆることを、多かれ少なかれ支配していることを考えると、これは皮肉なことにも思える。
Facebookはわれわれの友人であると同時に、人類がこれまで経験したことのない、史上最大の個人分析モデルの1つを作り上げた。
2013年までは、これらのインターネットの巨人を信じるのがファッショナブルだった。