ただし、母親はもともと専業主婦、父親も建設関係の監督者とあるから、同じソ連からの移住者でも両親が大学教授や研究者だったSergey Brin(Google)あたりとは大いに違った境遇だったと思われる。なお、ウクライナに1人残ったKoumの父親は結局米国の土を一度も踏むことなく1997年に他界、また2000年には母親も癌で亡くなったとのことでなかなかの苦労人であることもうかがえる。
英語には「Rags-To-Riches」(ボロから大金持ちに)という慣用句がある。日本語の「裸一貫から」というのとほぼ同じ意味のものだと思うが、Koumの人生が、まさにこの言葉を体現するようなものである点も米国のメディアに受けている理由かもしれない。
「マウンテンビューに辿り着いた当初は、フードスタンプ(生活保護の一種)でしのいでいた」「その後は母親がベビーシッターの仕事を見つけ、Koum自身も食料品店でアルバイトをしながら、一家はなんとか食いつないだ」というような有様だったから、「ウクライナに残してきた父親と話をしたくても、そのための電話代がなかった」らしい。
こうした経験も、後にWhatsAppのアイデア――いつでも使える安価なコミュニケーション手段の実現――につながったというが、そんな話を目にすると“人とつながること”の重み、あるいは切実さといったものが、たとえばSnapChatあたりと比べたときに大きく異なるという感じが伝わってくる。
AndroidやiPhoneのほかに、Windows PhoneやBlackBerry、Symbian、Nokia S40といった、どちらかというとマイナーなプラットフォームをサポートしている点やサービスのアベイラビリティ99.9%を実現しているなどという点にも「ギミックはなしでいい。いつでも、どんな相手とでもつながれる、頼りになる存在であることが何より大切」という考えがしっかり反映しているようにも思われる。
Koumはその後、地元の大学に通いながらYahoo!に仕事を見つけたが(大学は中退)、ここで同僚となったのが、WhatsAppの共同創業者となるBrian Acton。Yahoo!の「社員44番」という、この古参エンジニアとKuamは結局2007年10月末にYahoo!を辞めることになるが、それまでの間に「Project Panama」に係わるなどの経験を通じて、かなり面白くない思いをしていたようだ。
Project Panamaというのは、2000年代半ばにYahoo!が経営立て直しの切り札として開発を進めていた広告プラットフォーム。これが結局期待通りにいかず、「Googleと組むか、Microsoftと組むか」という話になったかと記憶している。
いずれにしても、このYahoo!時代の体験を通じて、「もう広告はこりごり……」ということになったらしい。「広告のせいで自動車や洋服が欲しくなる/本当は必要でない下らないものを買うために、したくない仕事をすることになる」(“Advertising has us chasing cars and clothes, working jobs we hate so we can buy shit we dont need.”)という映画『Fight Club』の台詞がWhatsAppのウェブサイトで引用されているのは、そうした事情によるものらしい。
VCの資金もいらなかった“超効率経営”
今回の一件では、VCとして唯一WhatsAppに投資していた「Sequoia Capitalがべらぼうなリターンを得た」という話も一部で話題になっていた。NYTimesやWSJでは「都合3回の出資で投じた6000万ドルが、約50倍の30億ドルに増えた」などと伝えているが、実はこの資金もSequoia側が頼んで入れさせてもらったものだったという。
Forbes記事には、SequoiaのJim Goetzというパートナーが「8カ月かかってなんとかツテを見つけ出し、KoumやActonと会うことができた」「その時点でWhatsAppが法人税をすでに払っていると知って驚いた」「2年後に5000万ドルを追加投資しようとした際にも、前回出資した8億ドルが手つかずのまま残っていた」などといった記述がある。
2人の創業者にある程度の社会経験があり、それなりの蓄えがあった――Yahoo!を辞めた時点でKoumには40万ドルの貯金があったという――ことや起業家としての実績がなかったことなどの事情はあったにせよ、2人が初めからVCの投資をあてにしておらず、またそうした資金なしでも事業を継続していける体制を作っていたというのは、現在のシリコンバレーの流れの逆を行くようで面白い。