情報系の学科を卒業したにもかかわらず、入社後も「パソコンは分かりません」と堂々と発言していたと明かす首藤氏だが、入社後に初めて配属されたのは西部支社。現在の九州支社にあたる部署だが、そこでの3年半にわたるセールスエンジニアとしての経験がその後の人生を大きく左右したと振り返る。
「九州というそれまで縁もゆかりもなかった地で、知り合いもいなかった当初は、仕事するしかなかったので、1日のほとんどを会社で過ごしていました」と首藤氏。しかし、その後を含めて「上司の環境にはずっと恵まれてきましたね」と話す。
「最初の上司は、日本オラクルの初代社長である佐野力の下で、創業時から右腕となって働いた人でした。その上司に徹底的にビジネスマンとしての基礎を叩き込まれました。例えば、"エンジニアに"多分"とか"できません"と言う返事はない。エンジニアは不可能なことをどうやって解決するかを考えるもの。だから分からない場合は宿題として持ち帰ってもいい。ただし、クライアントには1週間以内に返事をすると言っておいて、3日後に答えられるように、顧客の期待値をちょっとずつ超えるように”と指導されました。それが当時のオラクルのDNAだったんです」と首藤氏。
また、西部支社時代に首藤氏自身が強く意識していたのは、会社から見た場合の"自分の存在意義"だという。というのも、当時、西部支社では「ここでは人とかぶったらつぶされるから」と冗談交じりに先輩から忠告されたという。そこで首藤氏は、組織内における自らのブランディングを考えるようになり、その結果、当時はまだ周りで手を出している人がいなかったJavaやミドルウェア、アプリケーションサーバなどに関わり始めたといい、人材としての同僚との差別化を図ったという。
そしてもう1つが社内におけるロールモデル的な存在の意識。「追い抜こうと目指す人を、1年おきに心の中で決めていました。この製品に関しては自分が一番熟知しているというような小さな目標設定を繰り返してきました」と、自身のキャリアアップに対する自身の極意を明かした。