1901年、減圧症によってダイバーの1人が死亡し、他にも2人の身体にまひが残る事故の発生を受け、遺物の引き上げ作業は打ち切られた。しかし、青銅の像や陶器、アンティキティラ島の機械が、それまでの作業で引き上げられていた。
その後1953年と1976年に、フランスの海洋学者Jacques-Yves Cousteau氏が調査を実施し、新たな像や貨幣、宝石を含むさまざまな遺物を引き上げた。沈没船の横たわる海底の深さと当時の潜水技術のせいで、ダイバーは1回の潜水で数分間しか船の調査を行えず、それ以上は先の引き上げ作業時のように命がけのものとなった。
そして時代が変わり技術も進んだ。そこでギリシャ政府は、ウッズホール海洋研究所(WHOI)のBrendan Foley氏率いるチームを招へいし、Cousteau氏の調査から数十年ぶりとなる、沈没船の大規模な調査を開始することにした。Cousteau氏率いるチームの調査が全速力での短距離疾走だったとすれば、WHOIの調査はマラソンに近いものだと言える。
Foley氏は「われわれの沈没船調査作業は、基礎となる知識を積み上げた後、調査上の具体的な疑問を洗い出したうえで、その答えを探し出し、次の段階を考察するという、一歩ずつ着実に進めていくアプローチを採用してきている。われわれが、2012年にアンティキティラで初めて洗い出した疑問は、この周辺海域にまだたくさんの文化的遺物が沈んでいるのか、それともあの船しか沈んでいないのかというものだった」と述べた。
この2000年近く、調査隊はアンティキティラの海域のごく一部を調査したに過ぎなかった。沈没船らしきもう1つの残骸(Cousteau氏のチームによって発見されていたが、調査は実施されていなかった)も、まだ手つかずの状態であり、事実上誰の手にも触れられていない状態がずっと続いていた。
Foley氏のチームは、沈没船が沖に沈んでいたアンティキティラ島のまわりを周航し、8日間にわたってテクニカルダイビングを実施し、海面下45mまでに存在する人工物すべてを網羅した地図を作成することで、周辺海域に他の沈没船があるかどうかを調べ上げた。
Cousteau氏のチームが沈没船らしきもう1つの残骸を発見した際、彼らは古代ローマ時代のものとおぼしきアンフォラを目にしていた。つまり、この残骸は紀元前4世紀にまでさかのぼれる可能性があるというわけだ。
Foley氏は、「われわれは、この(2つ目の)残骸が見つかった場所を調査する初めての考古学者だった。その場所において、少し離れたところにある最初の沈没船発見現場から引き上げられたものとまったく同じ種類の陶器の存在を確認した」と述べた。これら2つの遺物の類似点からいくつかの疑問が生まれることになった。「アンティキティラB」と名付けられた2つ目の残骸は、最初の残骸と同時期に沈没した別の船のものなのだろうか?2隻目の船は最初の船と船団を組んでいたのだろうか?あるいはまったく無関係な船だったのだろうか?