「未来」“いずれやってくる結果”ではなく“そうなりつつある過程”
前編の通り、おそらく活版印刷を“発明”したGutenbergが手がけたテクノロジの融合と結合が、現在の私たちの予測をはるかに超える形態や規模で頻発するのがすでに突入しつつあるインターネットの第2四半世紀であるように思う。
その初期微動はすでに到来しており、まだまだ大流行中の「Pokemon GO」も、とりたてて「最新」の技術が採用されているわけではない。
2014年1月にサービスを停止した「セカイカメラ」
ほとんどの先進諸国で人口に対する使用率が50パーセントを超えたスマートフォンの普及を背景に、高精度なGPS機能、2008年の時点ですでに実用段階に入っていた頓智ドットの「セカイカメラ」に代表されるAR、Googleの「Google Maps」「Google Earth」「Street View」といったテクノロジが「ポケモン」というコンテンツを軸に寄せ集められ、あたかもGutenbergの活版印刷のように「編集」されただけである。
2045年に到来すると言われている「シンギュラリティー(人工知能の性能が人間の能力を超越する技術的特異点)」への関心の高まりと同期しつつ、近頃やたらと「未来」という言葉が取り沙汰されるが、そうした文脈における異次元へのシフト=「未来」はすでにもう始まっているのではないか。
2045年に突如として「シンギュラリティー」が実現し、現在想定されている「未来」がそこから始まるわけではなく、「ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき」(NHK出版)の著者であるアメリカの発明家、思想家、未来学者Ray Kurzweilが述べているように、私たちはもう「特化型AI」に取り巻かれながら生活しているわけで、ある意味で、「シンギュラリティー」はもう実現されていると考えたほうがいいだろう。
「未来」はあるとき突然やってくるわけではない。「未来」への階梯を昇りつつある「現在」の中に「未来」は内包されている。「シンギュラリティー」は“いずれやってくる結果”ではなく、“そうなりつつある過程”のことだ。