昨日は釣り。そして、必ず問われる質問は「釣れたか?」だ。
しかし、その問いは間違っている。「釣れたんじゃない、釣ったんだ!」。この名言、プロ釣り師である平松慶氏によるものと言われている。タレントのくじらのモノマネで聞いたことがある人もいるだろう。
釣り人にとって、釣りとは道具の選定から始まり、仕掛け、餌、棚、餌の付け方、竿の動かし方など限りない変動要因をコントロールしてターゲットを仕留める行為であって、垂らした糸に偶然に魚が掛かものではない。そこに関わる自由意思の成果である必要がある。
そんな筆者にとって、2016年に注目集めた自動運転とは、テクノロジでも、規制でも、保険でも、雇用の問題でもなく、自由意思の問題である。さまざまな移動手段の中で車の運転は、自分の自由意思でルートを定め、加速、減速できることが特徴である。そして、自動運転技術はさまざまな利便性と引き換えにその自由意思を奪う。
しかし、われわれに自由意思なんてものがあるのだろうか? 心理学者の妹尾武治氏によると、人間にはそもそも自由意思がないのだと言う。
同氏の著作でこんな実験が紹介されている。被験者に好きなタイミングで手首を上げさせ、その意思を持った時点を記録させた。その結果、本人が意思を持ったタイミングから手首が実際に動くまでは、およそ0.2秒であった。
しかし、脳の電位は、本人が申告したタイミングより0.3秒前から変化が生じていたという。自らの意思として認識されるより前に、脳の方が先行して判断を下していたわけである。つまり、手首を動かすタイミングは自由意思によって決定されたわけではない。
この現象に対し、心理学の仮説としてこういうものがあるそうだ(前掲書)。人間に自由意思はないのだが、自由意思で行動したと思い込む方が生存競争に優位に働く。故に、自由意思で行動を決定したと錯覚させるようになったと。
これは、自分を主体にした記憶の方が適応行動がより強化されるという特性があるからだそうである。つまり、何かをやってうまくいったり、いかなかったり、といった経験は、自分を主体として記憶する方が、より強く定着するので次の行動に反映されやすくなるということらしい。
だとすると、運転というのは、そもそも自由意思で行っているものではなく、自由意思で行っていると錯覚しているものに過ぎない。それが自動運転に切り替わると、個々人の身体的な知覚、運動能力がコンピュータに切り替わり、その能力が高いレベルで平準化されるに過ぎない。
そこで失われるのは、自分の自由意思で車を動かしているという錯覚だ。そして、これは自分を主体とした記憶が減少することとなり、車の運転に関して適応行動が強化される機会を失うこととなる。
運転が自動化されてゆくならば、もしかすると運転に関しては、自分を主体とした記憶というものは必要なくなるかもしれない。
しかし、人工知能(AI)が自動運転に限らず、さまざまな分野に適用されていくということは、人間が自ら行っていると錯覚しているさまざまな判断が置き換わってゆくということだ。
つまり、人間が本質的に持っていた適応行動を強化する能力、生き残って行く能力が失われてしまう。AIによる本質的な問題とは、雇用や社会的格差などではなく、人間の本質的な生き残る能力の減退にこそあるのかもしれない。
「釣れた」と「釣った」の違いは微妙だ。「釣ったんだ」と豪語しながらも、本当に釣ったのか、釣れただけではないかと自問は果てしなく続く。釣りとは、まるで自由意思の存在を確かめる行為であるかのようである。だから、やめるわけにはいかない。これは錯覚ではないのだ。
飯田哲夫(Tetsuo Iida)
アマゾンウェブサービス ジャパンにて金融領域の事業開発を担当。大手SIerにて金融ソリューションの企画、ベンチャー投資、海外事業開発を担当した後、現職。金融革新同友会Finovators副代表理事。マンチェスタービジネススクール卒業。知る人ぞ知る現代美術教育の老舗「美学校」で学び、現在もアーティスト活動を続けている。報われることのない釣り師