Rethink Internet:インターネット再考

“真実”などなく"解釈”だけがある--インターネットの限界

高橋幸治

2017-02-19 07:00

 前編では「Post-truth」という言葉が、近年のインターネット上の言説がしばしば巻き起こす炎上騒動や混乱状態の根底にある事態をも表現した言葉であり、“真実”が何かを疑うことこそ必要な姿勢であることを述べた。今回は後編だ。

「真実」など存在しない、あるのは「解釈」のみである


ドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェによる『権力への意志』(ちくま学芸文庫)。長短取り混ぜたアフォリズムによる遺稿集(画像提供:Amazon.co.jp)

 「Post-truth」の環境下で「結局のところ、誰の言っていることが正しいのかわからない」という常套句をよく聞くが、私たちはそろそろこの認識のフレームをバージョンアップしなければならないだろう。

 “虚偽を回避していかに真実を探り当てるか”ではなく、虚偽と思われるものも往々にして誰かの「解釈」であり、真実と思われるものも往々にして誰かの「解釈」である。

 ときに事実のお墨付きとして用いられる“科学的”ということですら、現在主流をなす論理の体系の中での整合性に過ぎないのであって、拠って立つパラダイム自体が変わってしまえば科学的に真理であることも誤謬になることすらあり得る。

 従って、「真実を見抜く目を養いましょう」的な警鐘は「Post-truth」の世界では何の役にも立たない。

 ドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェはその主著のひとつである『権力への意志』(ちくま学芸文庫)の中で次のように述べている。ニーチェの断章の中でも特に有名なものである。

現象に立ちどまって「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろう。(中略)
総じて「認識」という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。―「遠近法主義。」

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