未来を占うための解は“あいだ”と“ゆらぎ”の中に隠されている
こうした<過少>にも<過剰>にも居直れず、“進むことも避けられなければ退くことも叶わない”、“退くこともできなければ進むこともよしとしない”という悩ましい閉塞状況を私たちはどう突破していけばいいのだろうか? ひとつ確実に予測できるのはあやふやになってしまった「私」の最後の砦としての「身体」、内部と外部を劃然と隔てる皮膚という境界を持った「身体」への意識が俄然高まっていくだろうということである。ここにウェアラブル・コンピューティングの最大の可能性がある。
いささか余談めくが、こうした境界を持った「身体」への回帰は個別的な「身体」という感覚を超えて、集団、民族、国家という集合的な「身体」への意識も覚醒させていく。「Brexit」(イギリスのEUからの離脱)の問題にしても、トランプが唱えるメキシコ国境の壁も、我が国におけるヘイトスピーチの類も、どことなく、インターネットがもたらした内部と外部の融解をいったん押し留め、もう一度内部と外部の境界を再確立/再確定したいという欲求と一脈通じている現象のような気がしてならない。

しかし、今回の記事の冒頭で引用した鷲田氏の言葉を借りるならば、私たちは「どちらの極点にもとどまることができない」存在であり、「たえず一方の極へと押しやられながら、行き着くことができないまま反対の極に向かって押しもどされ、結局はその中間に漂うしかない」わけだ。だから、未来を占うための解は「楽天的な外部への拡張」と「反動的な内部への収斂」のいずれの極にもなく、むしろその“あいだ”と“ゆらぎ”の中に見え隠れしている。
本連載で以前、「インターネット第2四半期では、人間と情報、社会と情報、そして社会と人間の関係を考察する際の問題の定立の仕方自体の変更を迫られることがしばしば生起してくるだろう」と述べたことがある が、これはただただ混乱と混迷だけが支配する世界が到来することを意味しない(人によっては望まないことなのかもしれないが……)。
ネガティブに捉えられることが多い情報の<過剰>がある臨界点にまで達したとき、そこに突如として、情報の<過少>への逆行ではないポジティブな新局面が現れるだろう。