前回、企業側のマーケティングテクノロジが進化している一方で、生活者がそこに関与できるオプションは極めて限定的であることを解説した。
さらに、この問題の解決策として、個人主導データ流通を担う「CustomerTech」や生活者のメリットを最大化するためのプラットフォームである「CSP(Consumer Side Platform)」の必要性を説いた。
それでは、もしこのまま企業視点重視のデータ利活用やマーケティングが進化していった時、企業と生活者の関係はどうなっていくのだろうか。
不幸になる広告、幸せになる広告
2016年8月、関東学生マーケティング大会の産学共同プロジェクトとして、大学生と広告主企業やメディアの担当者が「2020年 生活者にとっての幸せな広告の姿を可視化する」をテーマにしたワークショップを開催した(ワークショップ全体のグラフィックレコードはこちら)。
ワークショップの流れとしては、まずネガティブな“生活者と広告の不幸な関係”を描き、問題意識を洗い出した後、“生活者と広告の幸せな関係”とは何かを話し合い、あるべき広告の姿を描いた。
その結果、生活者と広告の不幸な関係像が2つ浮かび上がった。
消費者がプライベートを丸裸にされ、一方的にターゲティングされることによって「広告を見向きもしなくなる未来」と、情報量の多さから消費者が広告を妄信し、思考停止してしまう「広告が権力を持って生活者を支配する未来」である。
これらは全く正反対な未来に思えるが、情報リテラシーのある人は前者のように広告を信じなくなり、リテラシーのない人は後者のように広告に随順してしまうという、ともに同じ延長線上にある生活者の姿である。
生活者と広告の“不幸な“関係 (グラフィックファシリテーターのやまざきゆにこ氏)
そんな問題意識から導き出された「幸せな広告」とは、ほどよい距離感で生活者を先導し、自分の可能性を拡げてくれるような、“人間らしく”自己決定できる「追いかけたくなる広告」であった。
これは単に自分本位な都合のいい考え方ではなく、「もっと生活者を幸せにできるはず」という広告の可能性を感じているからこそ導き出された結果である。
生活者と広告の“幸せな”関係
広告はプロダクト視点ではなく、そのプロダクトを通すことで、生活者が幸せな人生を想像し、自己を投影できる”受け手視点”であるべきであり、これはマーケティング全般に当てはめることができる。