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IT×芸術論:芸術を通してITの未来を考える

夏目漱石も読んでいた奇書「トリストラム・シャンディ」

高橋幸治

2018-08-04 17:56

 

 『トリストラム・シャンディ』(岩波文庫)という書名の何とも奇妙奇天烈な小説がある。どこか奇妙奇天烈なのかと言うと、長編の作品であるにもかかわらず(現在刊行されている岩波文庫版が上中下の三分冊)エンターテインメント性の欠片もなく、スリルも味わえなければ、サスペンスの要素も皆無で、涙を誘う感動的な描写も爽やかな読後感も、何かを考えさせる問題提起すらまったく存在しない。ただひたすら、トリストラム・シャンディ氏の半生がダラダラダラダラと続くのである。作者は18世紀イギリスの作家ローレンス・スターン。1759年から1767年にかけて暫時的に発表された全九巻から成る。明治の文豪・夏目漱石は『トリストラム・シャンディ』を原文で読んでおり、『トリストラム、シヤンデー』という論考の中でその感想を以下のように記している。

 

18世紀イギリスの作家ローレンス・スターンによる奇書『トリストラム・シャンディ』。トリストラム・シャンディ氏の半生を綴った自伝ながら、エピソードが次々と連鎖を引き起こしてしまうため、肝心のトリストラム氏が生まれるところまでなかなか辿り着かない。岩波文庫から上中下の三分冊で刊行されている

 18世紀イギリスの作家ローレンス・スターンによる奇書『トリストラム・シャンディ』。トリストラム・シャンディ氏の半生を綴った自伝ながら、エピソードが次々と連鎖を引き起こしてしまうため、肝心のトリストラム氏が生まれるところまでなかなか辿り着かない。岩波文庫から上中下の三分冊で刊行されている

 「何時垂直線が地平線に合するやら読者は只鼻の穴に縄を通されて、意地悪き牧童に引き摺らるゝ犢(こうし)の如く」

 

 「単に主人公なきのみならず、又結構なし、無始無終なり、尾か頭か心元なき事海鼠(なまこ)の如し」

 

 さすが漱石としか言うほかない実に的確な表現である。と言われても、未読の方にはこの小説がどんな内容なのか皆目見当がつかないと思われるので、簡単に粗筋を紹介しておこう(本当は粗筋も何もないのだが……)。

 主人公はイングランド北部ヨークシャー地方のジェントリーであるトリストラム・シャンディ氏。彼は自らの半生を自伝として書物にすることを決心し、まずは1718年11月5日の出生から筆を起こすのだが、その前に彼の父ウォールター・シャンディ氏の話、父の弟でありトリストラムの叔父にあたるトウビー・シャンディ氏の話、トウビー氏の従者であるトリム伍長の話が延々と語られれ、さらには母であるエリザベスの話はもちろん、彼女の出産に立ち会う産婦人科医スロップの話、はては女中であるスザナーの話等々……いっこうにトリストラムは生まれず物語は進展しない。岩波文庫版で言えば、最終の下巻になってもトリストラム・シャンディ氏はまだ母の産道を出て産声を上げていないのである。漱石の言葉を借りれば、まさに「意地悪き牧童に引き摺らるゝ犢(こうし)の如く」であり、「尾か頭か心元なき事海鼠(なまこ)の如し」と言うほかない。

ハイパーリンクのフックは情報のいたるところに隠されている

 こんな簡易な解説でもすでに読者は「そんな小説、いったどこが面白いんだ?」と感じておられると思うが、まさにその通りで、「トリストラム・シャンディ」は何らかの意図を持って、もしくは何らかの発見を得て当たらなければとても読み通せるものではない。前者の「何らかの意図」とは英文学の研究としてのスタンスだろう。筆者にはそうした志向はないから、当然、後者によって何とか同作を読了できたのだが、それは、この小説が「情報のハイパーリンク」を扱ったものであるという視点の発見である。

 つまり、人間の一生なり半生を編年体で記述するということは幾多の情報を捨象しながら組み立てた単線的な虚構のストーリーであって、「都合の良くないものを“編集”的に切り捨てながら、都合の良いものだけで“編集”的に組み立てる」ことにほかならない。もちろん、それが決して悪いと言っている訳ではない。言語による記述からしてそもそも単線的にならざるを得ず、“編集”を介在させずして情報を成立させることはできない。しかし、物語の形式を逸脱することによってストーリーというものが内包する虚構性を暴き出すことは可能である。自己言及性を承知した上での、言語を用いた言語の批判と呼び換えてもいい。

 

 「トリストラム・シャンディ」は「すべての情報はハイパーリンクで連結されており、そこには頭もなければ尾もなく、始まりもなければ終わりもないということを改めて思い起こさせてくれる。情報にはハイパーリンクのための無数のフックが用意されており、そのフックに他の情報のフックが意外なかたちで連結されて、やがて無限の連鎖網を作り出す。この単線的ではない情報と情報の連結こそが創造性の源泉である。私たちが日常的に使用している最も身近なハイパーリンクシステムとは、いまさら述べるまでもなくWorld Wide Webだ。その本質とは情報と情報の表層的な連鎖を超えて、もしくは一歩も二歩も深み分け入り、一見荒唐無稽な、しかし、本来は最もクリエイティブでイノベーティブなハイパーリンクを見つけ出すことにほかならない。

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