IT×芸術論:芸術を通してITの未来を考える

ボルヘスの短編小説が暗示する情報社会の本質と行方

高橋幸治

2019-03-01 07:00

インターネットという情報宇宙--『バベルの図書館』

 2019年はアルゼンチン出身の小説家、Jorge Luis Borges(1899~1986年)の生誕120年に当たる。BorgesはGabriel García MárquezやMario Vargas Llosaなどと並ぶ南米を代表する作家で、たびたび訪れるラテンアメリカ文学ブームの際には必ず話頭に上る偉大な創作者である。

 しかし、彼はGarcía Márquezの『百年の孤独』『族長の秋』(いずれも新潮社)やLlosaの『緑の家』『密林の語り部』(いずれも岩波文庫)のような長編小説を残しておらず、その類いまれなる想像力は無数の短編小説として凝縮、結実した。

 Borgesの作品は一編一編が非常に短いもののいずれも寓意に富んでおり、現代社会のさまざまな事象や現象をほのかに彷彿させ、そこに宿る影や闇のようなものをそこはかとなく暗示する。

 本稿でBorgesを取り上げるのも、まさに彼の幾つかの短編小説が情報社会のイメージを私たちに喚起させるからである。もちろんBorgesの活動期に現在のようなデジタル環境は現出しておらず、彼が直接コンピュータやインターネットに言及しているわけではないのだが、何やら今の私たちを取り巻く情報世界とその不安な行方を予見しているような作品が存在する。今回はその幾つかを紹介しよう。

 まずは、1941年に執筆された『バベルの図書館』(岩波文庫『伝奇集』所収)である。Borgesの作品の中で有名なものの一つだ。同作の冒頭は以下のような書き出しで始まっている。

 (他の者たちは図書館と呼んでいるが)宇宙は、真ん中に大きな換気孔があり、きわめて低い手すりで囲まれた、不定数の、おそらく無限数の六角形の回廊で成り立っている。どの六角形からも、それこそ際限なく、上の階と下の階が眺められる。回廊の配置は変化がない。一辺につき長い本棚が五段で、計二十段。それらが二辺をのぞいたすべてを埋めている。その高さは各階のそれであり、図書館員の通常の背丈をわずかに超えている。棚のない辺のひとつが狭いホールに通じ、このホールは、最初の回廊にそっくりなべつの回廊や、すべての回廊に通じている。ホールの左と右にふたつの小部屋がある。ひとつは立って眠るため、もうひとつは排泄のためのものだ。その近くには螺旋階段がって、上と下のはるかかなたへと通じている。

 広大無辺の『バベルの図書館』は「あらゆる本を所蔵して」おり「おなじ本は二冊ない」といわれている。しかし、その全貌に関しては実のところ昔も今も誰も知らない。図書館の蔵書が無限であると主張する者もいれば、いやいや有限であると推論する者もいる。ただ有限にせよ無限にせよ、「あらゆる本を所蔵して」いることは事実らしい。

 ということは、「未来の詳細な歴史、熾天使らの自伝、図書館の信頼すべきカタログ、何千何万もの虚偽のカタログ、これらのカタログの虚偽性の証明、真実のカタログの虚偽性の証明、バシリデスのグノーシス派の福音書、この福音書の注釈、この福音書の注釈の注釈、あなたの死の真実の記述、それぞれの本のあらゆる言語への翻訳、それぞれの本のあらゆる本のなかへの挿入」などが存在していることになる。

 もっと言ってしまえば、「他のすべての本の鍵であり完全な要約である、一切の本が存在していなければならない」。これでは「ある六角形のある書棚に貴重な本がおさめられて」いたとしても、ほとんど「それらに近ずくことができない」と言っていいだろう。

 この書物=情報の「宇宙」こそインターネットの原イメージと言っていいのではないか? ある情報への「注釈」があり、その「注釈の注釈」があり、さらには「あらゆる言語への翻訳」がある…。これはまさにインターネットの本質=縦横無尽に張り巡らされたハイパーリンクを想起させるもので、あるテキストは他のテキストとかならずつながっているという情報の相互参照性を示唆している。

 現在でも「インターネットとは何か?」という問いがしばしば発せられるが、大前提として、このハイパーリンクの連鎖循環を忘れてはならないだろう。同時に私たちは全ての情報にアクセスできているわけではなく、「近づくことができない」情報も存在しているという認識が必要である。情報の大海を自由に遊泳しているつもりでも、検索によって実は視野が狭められ、幾つかの六角形を行きつ戻りつしているだけなのかもしれない。

最初のページも最後のページも存在しない書物--『砂の本』

 『バベルの図書館』が空間的に無限の情報宇宙を描いているとするなら、1975年に発表された『砂の本』(集英社文庫『砂の本』所収)は一冊の書物の中に包摂された無限を扱っている作品である。主人公である「わたし」はブエノスアイレスのアパートの4階に住んでいるのだが、彼のもとにある日の夕刻、ねずみ色のスーツケースを提げたスコットランド出身の男が訪ねてくる。男は鞄から「異常な重さ」の聖書を取り出し、それを「わたし」に買い取ってくれと申し出る。しかし、その聖書は以下のような「ありうべからざる」代物であった。

 彼は、最初のページを探してごらんなさいと言った。

 左手を本の表紙の上にのせ、親指を目次につけるように差し挟んで、ぱっと開いた。全くの無益だった。何度やっても、表紙と指のあいだには、何枚ものページがはさまってしまう。まるで本からページがどんどん湧き出てくるようだ。

 「では、最後のページを見つけて下さい。」

 やはりだめだった。わたしは、自分のものとも思われぬ声で、こう言いよどむのがやっとだった。

 「こんなことがあるはずはない。」

 相変わらず低い声で、聖書の売人は言った。

 「あるはずがない、しかしあるのです。この本のページは、まさしく無限です。どのページも最初ではなく、また、最後でもない。なぜこんなでたらめの数字がうがたれているのか分からない。多分、無限の連続の終極は、いかなる数字でもありうることを、悟らせるためなのでしょう。」

 最初のページも最後のページも持たないこの書物は、まさに『バベルの図書館』で描かれた情報宇宙の変奏といえるだろう。「まるで本からページがどんどん湧き出てくるよう」に、あるテキストの内部には他のテキストが無限に織り込まれている…。この着想はフランスの哲学者であるJulia Kristevaが提唱した「間テクスト性(=Intertextuality)」の概念、つまり、「いかなるテクストもさまざまな引用のモザイクとして形成されており、すべてのテクストは他のテクストの吸収であり、変形にほかならない」(『セメイオチケ〈1〉記号の解体学』せりか書房)という言葉を彷彿とさせる。

 情報とはハイパーリンクの集合体であり、その相互参照性は外部はもちろん内部へも枝葉を広げている。『バベルの図書館』が外部に拡張するハイパーリンクのイメージであるならば、『砂の本』は内部に胚胎したハイパーリンクのイメージであると言っていい。

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