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伊藤若冲、「写実性」と「虚構性」の向こう側

高橋幸治

2019-06-05 07:00

「語る」ことは「騙る」こと……、フレームの内側と外側とは?

 相変わらず伊藤若冲は人気のようである。5月6日まで福島県立美術館で開催されていた「東日本大震災復興祈念 伊藤若冲展」は、会期が1カ月と少しの短期であったにも関わらず、来場者数が11万人を突破したとのこと。残念ながら筆者は今回の福島には足を運べなかったが、そうしたニュースを耳にするにつけ、12年前のちょうどいま時分、京都の相国寺承天閣美術館に「若冲展 釈迦三尊像と動植綵絵120年ぶりの再会」(2007年5月13日~6月3日)を観に行ったことを思い出す。

 同展覧会はそのタイトルにもあるように、若冲が親族や自身の永代供養のために相国寺に寄進した「釈迦三尊像」三幅と「動植綵絵」三十幅が、1889年(明治22年)以来(同年、「動植綵絵」三十幅は皇室に献上されてしまった)、120年ぶりに故郷である相国寺に約1カ月だけ里帰りし、“デフォルトのセッティング”として一般に公開されるというものであった。承天閣美術館に展示された作品群はそれはそれは見事なもので、正面の壁に「釈迦三尊像」三幅が掛けられ、左右の壁にそれぞれ「動植綵絵」十五幅ずつを配し、この計三十三幅がそろってこそ本来の壮麗さと荘厳さが表現でき、若冲の描きたかった世界観/宇宙観となるのなのだなと納得させるものであった。

 その時(=2007年)の来場者数も相当なものがあって、筆者も約1時間くらいは並んだ記憶があるけれども、若冲の人気が高まる中、2016年に上野の東京都美術館で再び「釈迦三尊像」と「動植綵絵」が公開された際には、連日4~5時間待ちの長蛇の列ができ、体調を崩す人も続出するというニュースが連日のように報じられたものだ。

 さて、その若冲の絵である。彼の作品を目の前にしたとき私たちは、その幻惑的な配色や色彩、偏執的ともいえる微細な筆致、さらにはあまりにも独創的な、対象の表情の描写や姿態の表現に圧倒される。特に微に入り細をうがったディテールの描き込みにはもはや呆れ果てるしかなく、うっかり、「写実的」という感想を抱きそうになってしまうのだけれども、すぐさま、これは明らかな想像と空想の産物であり、あくまでもフィクションなのだと悟る(もちろん悟らない人もいるし、それはそれで悪いことではない)。

 そんな思い過ごしを危ういところで回避させてくるのは、奇抜かつ大胆、奇矯かつ斬新な構図の取り方=フレーミングの異常さを意識したときだろう。つまり、そこには意図的な対象の凝集と密集があって、見るものをフレームの内部に釘付けにすることによって、フレームの外部を微塵も意識させないということである。「動植綵絵」における「群鶏図」「群魚図」「池辺群虫図」「梅花群鶴図」「秋塘群雀図」などはその典型である。もちろんそれは「動植綵絵」のシリーズに限った話ではなく、有名な「百犬図」や「樹花鳥獣図屏風」「鳥獣花木図屏風」といった作品も同様の特質を持っていると言っていい。

 フィクションであるにも関わらず、フィクションであることをすっかり忘れさせてしまうこと……。若冲の作品にはそうした力が宿っている。私たちは細部があまりにも精緻に表現されていると、それをついつい「写実的」と勘違いしてしまいそうになる癖を持ち合わせているようだ。これはアーティストが用いる一つのマジックである。しかし私たちは芸術に対するときと同様に、メディアを通じて描き出される情報の風景を眺める際にもこのマジックにうかつに引っ掛かってしまう。特に細部が浮き立つ特性を持つインターネットにおいてその傾向は強い。しかし、そこに表現された景観がある特定の構図の取り方=フレーミングに依拠していることを、頭の片隅、心の一隅で感じ続けていることは重要なことだろう。

 そもそも「話す」という言語行為が瞬発力に根差した無意識的かつ非反省的なものであるのに対して、「語る」という言語行為が多分に意識的かつ反省的、つまり演出的かつ作為的であることを多角的な側面から考究したのはカント研究で有名な哲学者の坂部恵氏である。同氏の『かたり――物語の文法』(ちくま学芸文庫)には以下のような一節がある。

 この事実もまた、<はなす>が、素朴な、しばしば内容の真偽や話者の意図の誠実不誠実に無記な行為であるのにひきくらべて、<かたる>が、すでに、意識の屈折をはらみ、誤り、隠蔽、欺瞞さらには自己欺瞞にさえ通じる可能性をそのうちにはらんだ、複雑で、また意識的な統合の度合いの高い、ひとレベル上の言語行為であることをしめすものとみなすことできるだろう。

(中略)

 さて、われわれは、さきに、<かたり>という言語行為が、<はなし>にくらべて高度の反省的屈折をはらみ、ときに、誤り、隠蔽、自己欺瞞などに通じる可能性をもつことをその特徴の一つとしてあげておいた。この特徴の症例として、以前には、「かたるに落ちる」とう表現をあげておいたが、より端的に、<語る>ことは<騙る>ことに通じるという周知の事実を、ここでおなじ特徴のいまひとつのより強い症例としてあらためて引き合いに出しうるだろう。<かたる>ことが<語る>ことであると同時に<騙る>ことであるということは、この行為において、二重化的超出ないし二重化的統合といった反省的屈折の過程が介在することを何よりもあきらかに示していると考えられるのである。

 「語る」はどこかに必ず「騙る」ことを宿している。それはなにも「世界は全てが虚構であり、真実はどこにも存在しない」という安易なニヒリズムを意味するわけではない。インターネットによって全てが照射され照明され、あらゆるものが可視化されるようになったと考えられている現代において(確かにインターネットが顕在化させたものが多分にあること自体は否定しない)、そこに描出されている世界はあくまでも一つの構図の取り方=フレーミングに過ぎないということである。

 誰かが描いた絵の外には必ず描かれなかったものがある。それは別の誰かがきっと描くだろうし描かれねばならない。今回たまたま描かれた絵の裏にはそのキャンバスに収まりきらなかったものがある。それはきっといつかは描かれる可能性を持っている。私たちは「真実」と「虚偽」という二元論のはざまでどちらが正か非かに拘泥するのではなく、いま目の前にある絵がフィクションであるという認識の上に立ちつつ、不断にその外側、外部に目を凝らし続けねばならないだろう。現代において描かれそびれているもの、それは果たして何だろうか……?

高橋幸治
編集者/文筆家/メディアプランナー/クリエイティブディレクター
1968年生まれ。日本大学芸術学部文芸学科卒業後、1992年、電通入社。CMプランナー/コピーライターとして活動したのち、1995年、アスキー入社。2001年から2007年まで、Macとクリエイティブカルチャーをテーマとした異色のPC誌「MacPower」編集長。2008年、独立。以降、「編集=情報デザイン」をコンセプトに編集長/クリエイティブディレクター/メディアプランナーとして企業のメディア戦略などを数多く手がける。国際ファッション専門職大学国際ファッション学部教授。日本大学芸術学部文芸学科および横浜美術大学美術学部非常勤講師。著書に『メディア、編集、テクノロジー』(クロスメディア・パブリッシング刊)がある。

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