今回は普段よりも広い視野で、法的な領域に踏み込んでみたい。テクノロジーは単なるハードウェアやソフトウェアだけでなく、私たちの生活や社会のあらゆる側面の基本的な構成要素だ。
アメリカでは2019年、法執行機関のためにバックドアを追加したことで暗号化の効果が低下したことを米司法長官のWilliam Barr氏が認め、驚くことにニュースとなった。米国政府は長い間、国家による監視とアクセスはトップレベルのセキュリティと共存できるとして、公には否定されてきたのだ。著名な専門家のBruce Schneier氏は、このトレードオフについて真剣に議論すべきだと書いている。
「今回のニュースにより、われわれはやっと理にかなった政策対話ができるようになった。確かに、バックドアを追加することで、法執行機関が悪意ある者を盗聴できるようになり、社会のセキュリティは強化される。その一方、悪意のある人も盗聴ができてしまう。これは重要な政策論争のテーマであり、われわれがセキュリティと監視を両立することができるか、という偽りの議論ではない」
一般の人が解読不可能な暗号化に賛成するかどうかにかかわらず、このような問題ではすべてを手に入れることも、すべての人を幸せにすることもできないと認める必要がある。
テクノロジーが進化するにつれて、法律は適応しなければならない。新しい発明が一般的になれば、まったく新しい法律やまったく新しい規制部門が必要になる。馬車に対する規制を自動車に応用することはできない。医薬品、飛行機、銀行、電話、食糧生産、武器は公益のために規制されている。
こうした、公的な利害と私的な利害の押し引きには、機能的な均衡を生み出す傾向がある。これは何十年もかかるプロセスだが、決して終わることはない。1911年に米国政府がJohn RockefellerのStandard Oilを解体したときのように、重大な規制もしばしば施される。
規制は世間の注目を集める危機に追従するが、先手を打って危機を回避できるのが理想的だ。その一方、先制的な規制は過剰な規制につながることもあり、イノベーションや投資を阻害する原因となる。
発明は、法的な影響はもちろん、社会的な影響を考慮して生み出されるものではない。利益がモチベーションとなっていることが多いため、長期的な影響は予測できず、無視される場合も多くある。成功した薬でも、販売から何年も経って副作用があると判明し、禁止される場合もある。
FacebookとYouTubeは政治の急進化に貢献するかもしれないが、このようなソーシャルネットワークやビデオ共有サービスはそのために作られたわけではない。これらの影響を調査し、規制措置を促進するだけの重要性があるかどうかを判断するのは研究者やジャーナリスト、法執行機関、そして最終的には政治家である。
法律は、絶えず適応しているが、われわれの権利に関してはどうだろうか? 新しい発明とともに進化しているか? 権利の定義は本質的で不変、永久的なものだろうか? 良くも悪くも、1215年のマグナ・カルタ(イギリス)や1791年の権利章典(アメリカ)のような市民権の記録にある基本文書は、国民に対する王や大統領、そして議会など、政府の権力を制限している。
つまり、政府があなたのために「しなければならないこと」ではなく、政府があなたに「してはいけないこと」を定めている。