OJTという「ほったらかし」

斎藤昌義(さいとう まさのり) 2010-04-10 13:22:30

 Twitterで、企業研修の内製化が増えているという話題がつぶやかれていた。その理由は、不況でコスト削減を図りたいためだけではなく、「実践的な教育をしたいから」だという議論であった。

 しかし、もしこれが事実であるとすれば、研修講師に「実践的教育の能力がない」ということの裏返しとも受け取れる。企業研修に関わる一人として、耳が痛い話しだ。

 では、内製化すれば実践的教育が出来るようになるかといえば、それも大いに疑問である。

 どれほど現場で修羅場をくぐっていても、その経験だけで、相手の才能を引き出し、能力を高められる「教育者」になれるのかといえば、決してそんなことはない。「名選手、必ずしも名コーチにあらず」のたとえである。

 経験知、暗黙知が、たとえ豊富にあったとしても、形式知として相手に伝えることが出来なければ、教育にはならない。

 確かにがんばった実戦経験を語ることは、精神論として相手を鼓舞し、モチベーションを高めることには一定の効果はある。しかし、同じ状況は、絶対に再現しない。だから、あらゆる状況に対処できる体系化、法則化、手順化をしなければ、教育としては、不十分といわざるを得ない。

 もしかしたら、ここでいう実践的教育とは、社内用語、事務処理手順、組織内の役割分担や力関係を理解させる意味であろうか。確かにこれも、実践には不可欠ではあるが、これは、実践能力の本質ではない。

 外部講師にこの部分を期待することは難しいが、仕事の本質に関わるところであれば、彼らもまた素人ではない。私もそうだが、講師を生業とする者は、それなりの、いや人並み以上に実践経験をつんできたものが多い。

 しかし、その経験を伝えようとするとき、自分の言葉や理論を築けず、既成の手法や他人の言葉の受け売りで、研修を行おうとすれば、せっかくの実践経験も色あせてしまう。その程度であれば、プロの研修講師として、お客様の期待に応えることはできない。

 また、過去の栄光が、いまだ通用するという思い込みも厳に慎まなければならない。もはや高度経済成長の時代は終わり、靴底を減らしてお客様に通えば、仕事をもらえるような時代ではない。

 時代に即した知識、そして体系化や手順化を心がけなければ、それはもはや古典の愉しみである。過去の栄光を懐かしみながら「オレの若い頃はなぁ」という根性論と成り下がる。これは、研修ではなく、精神訓話に過ぎない。

 企業が、内製化を進める理由として、外部の講師に、このような時代の流れに即した教育が期待できないという思いも、その本質にはあるのかもしれない。

 もうひとつ、企業研修の現場で、よく話題になるのが、OJTである。「わが社は、OJTで社員を鍛えているので、研修やセミナーには期待していない」という話しを聞く。しかし、この理想をを実現するには、OJTを担当する者が、次の3つの条件を備えていなくてはならない。

1.OJTの責任を担う自覚と意欲があること。
2.教えるスキルや能力が備わっていること。
3.育成の目標が明確に示されていること。

 これがないままに、若者を現場に放り込み、あとは自助努力に期待する。これでは、「ほったらかし」である。

  「あとは、自分で何とかしてください。自分で何とかなった人だけが、残ってくれればいいですよ。」これを、トレーニングとはいわない。

 「いや、そうやって、みんな一人前に成ってきたんだ」といわれるかもしれないが、それはOJTの成果ではなない。たまたま、本人の自助努力の成果が実っただけである。

  当然、その結果には、ばらつきが出る。できるもの、できないものが、顕著に偏ってしまうのは、まさにそんなOJTの成果(?)と言えるだろう。

 企業研修の本質は、自分達の事業目標を達成するに資する人材を育てることにある。そのためには、教育を通して、あるべき姿を示し、対象となる人材を一定のレベルまで底上げする必要がある。

 つまり、一定の高さまで、教育という「はしご」をかけて上らせてあげる。高い「はしご」の上に立たせ、このように仕事をすれば、成功し、成長するんだよという、景色や地図を高い視点で見せてあげることが目的である。

 OJTとは、その「はしご」の上で目にした景色の印象と地図を片手に、実践の現場を歩かせ、感覚として身体に記憶させることが目的である。

 その「はしご」を用意もせず、ただ体験の現場に放り出すだけでは、本人はどこに向かって歩けばいいのか分らない。当然、計画的な人材の育成は期待できない。これでは、本人の自助努力というはっきりしないものに期待した「博打」以外の何者でもない。

 こんな事を言うと、中小の企業経営者は、「自分は教育など受けず、現場でたたき上げて今までやってきたんだ。だからOJTで十分」という気持ちをもたれるかもしれない。しかし、自分がそうであったからといって、部下に同じ事を期待しても無理である。むしろ、そのような存在が稀有であるからこそ、経営者になれたという事を自覚する必要がある。

 人材の育成は、容易なことではない。高い志と精緻な戦略があってこその成果である。OJTは、その戦略の一環として、有用な育成の手段である。しかし、本来の目的で正しく使わなければ、それは、放置であり、手抜きの言い訳となってしまう。

以前のブログで、こんな事を書いた。------------------------------

 「わが社は、OJTでやっている」という話を聞くと、「わが社は、人を育てる取り組みを放棄しています。自分でできる人間だけが残ってくれれば、それでいいんですよ。」そんな風に聞こえてしまうのは、私の耳が悪いせいでしょうか? 

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※このエントリはZDNetブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および ZDNet編集部の見解・意向を示すものではありません。

8件のコメント
  • タイプミスですね。
    「この理想をを実現」

    2010年04月27日

  • まさぼう

    記事を過去に向かっていてすいません。
    OJTという「ほったらかし」による育成が成功したために、私がPMに書いたような権威の失墜へとつながっているように感じたためです。

    ただし、あくまで私はWEB関係の数社とそれに関連するような会社での経験しか知りませんので、
    多くの方に当てはまるは不明です。ですので、一側面としてみていただければと思います。

    まず、「ほったらかし」でどのような人物が生まれるかといえば、できない人も生まれる一方、

    「そのような存在が稀有であるからこそ、経営者になれたという事を自覚する必要がある。」
    というような人物も生まれてしまう危険性があるという事です。
    もちろん、そのような人物を拾い上げる制度が会社にあれば、
    「あとは、自分で何とかしてください。自分で何とかなった人だけが、残ってくれればいいですよ。」
    というのも、魅力ある選択であるため、がむしゃらにがんばる人も出てくるだろう。

    でも、ほんとうにほったらかしなのであれば、実際はどうであろうか?
    このようなほったらかしOJTでやれることの自信がついた人が、その会社以外で生き抜くことを選択するのではなかろうか?
    会社は、「ほったらかし」による、より、社会で受ける制約よりも厳しい制約を課した中でその人は生き抜いていける方法を見つけてしまったかもしれないのだ。

    まして、IT業界でこのような「ほったらかし」は日常茶飯事だ。
    どこでも、そのような環境で生き抜いていける人員をほしがっている。

    つまり、「ほったらかし」は、会社にも「ほったらかし」で生き抜いた人と同様の成長の強さがなければ、
    社員にそっぽを向かれてはしないだろうか?

    また、このような社員が多々でてきて、それでやめていけば、残っている社員は、
    「まだまだ、自分だめだから、この会社で我慢しなければならないのだ。」
    という印象を抱いてしまう。
    「もう少しがんばって抜けだそう」もしくは、「あれは無理だ、今の会社にしがみつこう」ということになる。

    OJTという教育がうまくいかないことは問題としてわかりやすいが、
    うまくいきすぎる時の問題もきちんと考慮にいれるべきではなかろうか?

    2010年04月19日

  • 斎藤昌義

    jjzak さん

    > 自助努力でなんとかせいという社風ですから、

    危機感を持たせ、自助努力の大切さを学ばせる。また、それを促すことは、大切なことだと思います。ただ、それだけに頼ることが、計画的、戦略的な育成ではないということです。まずは、それに気付づかれた jjzakさん が、自助努力として、取り組んでみるべきかもしれませんね。


    役員 さん

    > 世の中には言葉で伝えられることと
    > 言葉で伝えられないことがある。

    まったく同感です。しかし、その一方で、言葉でしか伝えられらいこともあるのではないでしょうか。その区分けをはっきりとさせ、戦略的、計画的に取り組むことが、教育ではないかと思います。

    > 前者によって一定のレベルにはなるが、
    > 本当に大事なことは後者。
    > そして後者は研修などでは伝えられない。

    言葉で伝えるべきもの明示的、法則的、形式者でなくてはなりません。それでなくては、理解できず、応用できないからです。しかし、人への敬意、礼儀、気合、臨機応変な対応などは、言葉で伝えることは難しいと思います。ただ、そのような理念や精神を伝えるものに、範をたれることの自覚が必要だと思うのです。

    過去の栄光を引きずり、自分の経験や知識の域を出ない。そして、懇々と精神論や若かりし頃の自慢話を聞かされる。これでは、忍耐を学ぶことはできるでしょうが、その本質を学ぶことは、容易ではありません。


    LNEさん

    > 新人が持っている予備知識や関心分野などを、十分把握できていなかった

    確かに、彼らについて理解することも大切です。しかし、何をOJTの目標とするかは、こちらが決めてあげるべき事です。育成目標は、会社やリーダーが与えるものです。彼等の現状を正しく評価し、あるべき姿を明確にすれば、自ずとギャップが明らかになります。このギャップこそ、彼等の課題なのだと思うのです。このギャップ=課題を、彼らと共有することが、トレーニングの起点ではないでしょうか。

    2010年04月12日

  • jjzak

    これは耳の痛いはなしです。わたしの周りでは実際OJTの意味を理解して取りくんではいないですね、教え上手なスタッフは皆無ですしそもそも自助努力でなんとかせいという社風ですから、
    可哀想なのは新人で邪魔者扱いをいきなりされることです。これじゃ愛社精神(実践で教えたいようですがw)なんて湧くわけないですよ。

    2010年04月12日

  • 役員

    世の中には言葉で伝えられることと
    言葉で伝えられないことがある。

    前者によって一定のレベルにはなるが、
    本当に大事なことは後者。
    そして後者は研修などでは伝えられない。

    そもそもOJTで伝えるべき暗黙知を人任せにしようとする
    態度が凋落の原因。

    2010年04月11日

  • LNE

    営業ではなく技術担当ですが、OJTのトレーナー経験があります。
    コラムの内容は正直言って耳が痛い話ですね。
    新人が持っている予備知識や関心分野などを、十分把握できていなかったという事もあって、解説した内容が十分に理解されたかどうかすら分からないという悲惨な結果になってしまいました。

    2010年04月11日

  • 斎藤昌義

    Hiro-H さん コメントありがとうございます。
    OJT=片手間とは、なるほどですね。

    私は、OJTに意味がない、役に立たないなどというつもりはありません。
    目的と手段を持つことが、前提ではありますが、ほったらかしの言い訳として、
    使わないでほしいと思うのです。

    2010年04月11日

  • Hiro-H

    OJTと言う言葉を初めて聞いたとき、私はこの言葉を「片手間」と訳しました。

    現場にたとえば「OJTマネージャ」とか、トレーニング責任者のような立場がいれば、
    まだこの言葉も意義あるものになるのでしょうが、
    実際のOJTは「積極的な教育は何もしない。現場は弱肉強食の世界だ。」
    が現実でしょう。

    「今さえよければそれでいい。」的な発想が根源にあるこのOJTは、
    後継者が育たない、技術が引き継がれないと言った大問題があります。
    こんな状態だと、自社の技術も有能な人材もスッカラカンになってしまい、
    いつの間にか単なる「手配屋」に成り下がってしまいます。

    人の教育をないがしろにしているようでは、中国韓国の後塵を拝してしまうのは
    当然の結果です。

    2010年04月11日

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