22のとき、会社を辞めて宣教師になった。学校まで行かせてくれた上司をがっかりさせた。無宗教の母には教会に息子を奪われるような思いをさせてしまった。社会の厳しさを身に染みて知りながら、仏や神を信じる敬虔な父も、今回だけは突飛な息子の行動に押し黙った。夜も眠れず心配する父に「心配ご無用。オレは人生の大学にいってくる!」なんて、一方的な言葉を残して飛び出した。
あの頃のボクは今よりずっと若く自分なりの使命感とか、やりたいことが先に立ち、大切な人に上手に説明ができなかった。ま、この点は今もさほど改善されてはいない・・・。とにかく、この時の父の顔を思い出すと、今でも胸がつぶれそうになるのです。
2年がたち伝道が終わった。そんなボクを上司は再雇用してくれるし、両親は「怪我もせず無事に帰ってきた」と言って喜んでくれた。宣教師になって、見ず知らずの人を愛して、人にキリストの愛を伝えるんだ!なんて意気込んでいた人間が、実は一番身近で大切な人を上手に愛せていない・・・なんとも本末転倒な話だ。そんな簡単なことが、やっとここ数年、自分が上司になったり、親になったりして、ようやくわかるようになった。だから、そんなボクに愛を語る資格はない。