成功体験に溺れないMicrosoft
IT業界アナリストのベンダーに関する英文レポートを見るとたまに「victim of its own success(自らの成功の犠牲)」という表現に出会うことがある。ある市場セグメントで成功しすぎたために競合環境の変化への対応が遅れ、結果として企業が衰退してしまう状況を表した表現だ。あえて例を挙げるまでもなく、IT産業の歴史は「自らの成功の犠牲」の事例にあふれている。
この落とし穴にはまることなく、成長を継続してこれた稀有な企業のひとつがMicrosoftであろう。世界最大のソフトウェア企業でありながら、Microsoftの変化のスピードは(少なくとも現在までのところは)驚くほど迅速だ。戦艦の規模を持ちながら、駆逐艦のスピードを有するとたとえても良いかもしれない。人により同社に対する好き嫌いはあるかもしれないが、いったん戦略転換を図ったときの迅速性には経営戦略として学ぶべき点が多いだろう。
インターネット時代に出遅れなかったMicrosoft
例として、今回のRay Ozzie氏のメモにも簡単に触れられているが、今からおよそ10年前における同社のネット戦略の変化を思い出してみよう。「Windows 95」登場前夜、「MSN」は「CompuServe」などと同様のパソコン通信型のサービスと位置づけられていた。つまり、コンテンツ、通信インフラ、アクセスソフトを1社がまとめて提供するクローズドなビジネスモデルとして考えられていたのである。Windowsにより達成したデスクトップパソコンにおける囲い込みを利用して、ネットの世界でも囲い込みを達成しようということだ。
しかし、当時、急速に普及しつつあったインターネットの動向を無視できなくなったMicrosoftは、パソコン通信のクローズドな世界からインターネットのオープンな世界に急速に戦略の方向性を切り替えた。MSNはインターネット上のポータルとなり、同社はネット接続のインフラ事業からは速やかに撤退し、そして、「Internet Explorer」をWindows OSと統合することで、先発のNetscapeを追い落とそうとしたのである。
今の時点で、後付けで考えてしまえば、これは当たり前のことのように思えるかもしれない。しかし、1995年時点で考えればこの戦略転換はそれほど自明なものとは言えなかった。収益性が明らかでないインターネットビジネスに投資するよりも、パソコン通信型の囲い込みビジネスに投資した方が高い利益率を得られるであろうという分析も多く聞かれたのである。実際、戦略転換にあたり社内においても多くの軋轢があったと聞いている。
いずれにせよ、結果的にはこの賭けは正しかった。この大胆な賭けがなければ、今、Microsoftは市場機会の多くをNetscapeやAOLに奪われていたかもしれない。
次の戦略転換は?
今回のOzzie氏の社内向けメモ(筆者としては、マイクロソフトの戦略表明として意図的に公開されたとしか思えないが)も、今再び、急速に舵を切ろうとしている同社の現状を表したものだ。それは、ソフトウェアを売って対価を得るビジネスから、ソフトウェアが提供する機能を売って対価を得るというビジネスへのパラダイムシフトである。いわゆる「software as a service(サービスとしてのソフトウェア)」という発想だ。なお、ここで言う「サービス」とはSOA(サービス指向アーキテクチャ)における「サービス」(=ソフトウェア部品)とは微妙にニュアンスが異なるので注意が必要だ。
「サービスとしてのソフトウェア」という発想自体は特に新しいものではない。いわゆるASP(アプリケーション・サービス・プロバイダー)のビジネスモデルである。多くのソフトウェアベンダーがこの戦略を推進しているし、そもそも、Microsoftの「.NET」構想の目的のひとつが、このソフトウェアのサービス化に他ならなかった。
たとえば、2001年に発表された「.NET My Services(開発コード名:Hailstorm)」はソフトウェアのサービス化によるビジネスを目指したMicrosoftの試みのひとつだ。カレンダーやメールなどの基本機能をWebサービスとして提供し、ユーザーから使用料を得るというスキームである。
しかし、この試みは成功したとは言い難い。これには2つの理由があると思われる。第1に、インターネット経由で共通サービスをプログラムから呼び出すという開発モデルに人々がなじんでいなかったこと、そして、無料サービスが当たり前のインターネットの世界では小額料金であっても利用料ベースのビジネスは展開しにくかったことである。.NET My Servicesの試みは誤りではないが、少なくとも時期尚早であったと言えるだろう。
Microsoftが「サービスとしてのソフトウェア」のビジネス化に苦慮している間に、着々とユーザーと投資家のマインドシェアを獲得してきたのが言うまでもなくGoogleである。Googleはソフトウェア部品ではなく、アプリケーションそのものを提供すること、そして、広告収益モデルによりユーザーに対して高度なサービスを無償で提供することで成功した。ここで「成功した」とは、単に多数のユーザーを集めたことや株式時価総額を高めただけではない。実際に17億ドルを越える利益を上げたということである。
明らかにMicrosoftにとってGoogleの存在は脅威だろう。Ozzie氏のメモにも「なぜ、MicrosoftはGoogleのようにできなかったのか」というあせりが見えるように思える。筆者ととしては、広告収益モデルを真剣に検討しなかったことが、同社の最大の誤算であると考える。
今度もMicrosoftは成功できるのか?
では、Microsoftはこの世紀の戦略転換を成功させることができるのだろうか。
Microsoftは成功のための適切なテクノロジーを有していると言って良いだろう。特にソフトウェア開発者におけるマインドシェアの高さは同社の重要な資産だ。おそらく、同社にとっての最大の課題は市場環境と企業文化に関するものだ。
市場環境という点では、「サービスとしてのソフトウェア」の多くがLinuxをはじめとするオープンソースソフトウェアを中心として進行している点が懸念材料だ。これが、Microsoftの重要資産である開発者のマインドシェアが奪われるという点で、同社の大きな課題だ。
また、サービスプロバイダーとしてのMicrosoftの実績と企業イメージは、hotmailなどでの実績はあるもののGoogleと比較して明らかに劣っているだろう。そして、より大きな課題は企業文化に関するものだ。ソフトウェアパッケージを売って収益を得るというモデルから、ソフトウェアサービスを使わせて広告料を得るというモデルへの変化はおそらくMicrosoft始まって以来の最大な変化だ。社内での軋轢も当然予測される。
もちろん、既存ビジネスによる堅い利益を軽視することはできないが、逆に、既存の利益を重視しすぎて、改革が中途半端になってしまえば、Googleなどの競合他社との差はますます開いてしまうだろう。このような変革を適切なバランス感覚の元に行っていくことは相当に困難な作業だ。
Microsoft生え抜きではないOzzie氏がCTOに選任されたことも、しがらみなしにこの重責を実行できると期待されてのことであろう。
最後に、筆者の予測として「Microsoftは今回も戦略転換に成功し、新たなソフトウェアサービス市場においても重要プレーヤーとしての地位を維持するが、Googleを凌駕することはないであろう」と述べておくこととしたい。
■著者紹介■
栗原潔
株式会社テックバイザージェイピー代表取締役。
日本IBM、ガートナージャパンを経て、2005年6月に独立、先進ITに関する調査・コンサルティング業務に従事。東京大学工学部卒、米MIT計算機科学科修士課程修了。弁理士。技術士(情報工学)。