米国時間2月21日、IBMの名誉フェローであるFrances Allen氏が、A.M.チューリング賞の初めての女性受賞者となることが明らかになった。チューリング賞は計算機科学のノーベル賞にあたる賞だ。
Allen氏は1957年にIBMでプログラミング言語Fortran(Formula Translation)の教師としてキャリアをスタートしたが、並列計算能力を持った処理の開発も続けていた。並列処理とは複数のマイクロプロセッサで同時にプログラムを実行することで、今日の高速計算を可能にした技術だ。IBMの古参である彼女は最近、計算機科学の未来に対する展望と、技術界の「最高の世代」の女性の経験してきた仕事とはどんなものだったかを語ってくれた。
--米計算機学会(ACM)はあなたのPtran(Parallel Translation)での業績に対しA.M.チューリング賞を贈ることになりましたが、あなたはご自身の計算機科学者としての最大の業績は何だと考えていますか。
Ptranは高性能コンピューティングにユーザーがアクセスすることを可能にしましたが、これは私の仕事の一部に過ぎません。並列計算能力のあるコンピュータを使って高性能コンピューティングを達成したことですね。
--子どもの頃のどんな経験が、コンピュータや技術への興味に繋がったのだと思いますか。
私はへんぴな農場の出身です。いや、そんなにへんぴではありませんが、ニューヨーク北部地方の酪農場で、電気もなく、セントラルヒーティングもなく、水道もなく、コンピュータの登場以前の状態でした。私は、農場での経験が、問題を解くことに興味を持つ自由を与えてくれたのだと思っています。
ところで、これは少し質問から外れるのですが、私が、これは誰かが調べなければならないと思っていることが1つあります。私は、あの農場には何かがあったのだと考えているのです。計算機の世界やロケットを作る世界に、早い時期に入った人たちに注目してください。私が同世代の人たちと生い立ちについて話すと、農場から多くの人が来ているのに気づきました。もちろん全員ではありませんが、多くの人がです。多くの人が中西部の農場出身です。
--本当に?
はい。誰かがこの命題に取り組むべきだと思いますよ。
--あなたが若い頃はコンピュータに触れていなかったのだとすると、あなたがこの技術のことを職業にしたいと考えたのはいつなのですか。
ただ、そうなってしまったのです。私は高校の数学教師としての教育を受けました。ミシガン大学で数学の修士号を取り、借金状態にあったとき、IBMがキャンパスに来ました。私は、借金を返せるというのでIBMと契約しました。その時、私はいずれ、自分の最初の志望である数学教師に戻るつもりで今した。
--最初に触れたコンピュータは何ですか。
650です。例のIBM 650。
--あなたは女性としても、計算機科学者としてもパイオニアですね。あなたがキャリアを積み始めた頃の自分にアドバイスをするとしたら、どんなことですか。
うまく行かなくても、イライラしないようにということです。
あのはじめの頃は、素晴らしい時期でした。なにしろ「計算機科学」がまだ存在していませんでしたから。考え方にも、何をやるかについても制約は多くありませんでした、ですから、そこには一種の自由があり、たくさんの違うことを試してみる時期でした。今は、何がうまくいかないかという知識が豊富にありますし、何がうまく行かないかを推測する知識もあり、そして、たくさんのことを知らなくてはなりません。昔は、なんでも広く実験できました。これからペンキを塗ろうとする白い壁のようなものでしたね。
--あなたは1957年にPtranを教えるためにIBMに入りましたね。あなたが働き始めてから、女性の環境はどう変わりましたか。
私がポキプシーのIBM研究所に入ったときの環境では、女性は多く雇われていました。実際、かなり多くの女性がバサーや付近の地域から来ていました。私はその何年もあとに、IBMが「マイフェアレディ」と呼ばれるパンフレットを作り、積極的に女性を募集していたことを知りました。もちろん、彼らは多くの人を積極的に募集していました。応募者が満たさなければならない要件は設定されていませんでした。彼らは単に面白いバックグラウンドを持った人たちを探していたのです。
--男性優位の職業に就いた女性として、キャリアを積んでくる過程で「痛い」と思った瞬間はありましたか。
いやいや、そうですね、ありましたね。60年代には女性への風当たりは強かったですからね。