筆者は、Thomas Friedman氏の著した書籍「The Lexus and the Olive Tree」(レクサスとオリーブの木--グローバリゼーションの正体)を20年近く前に読んで以来、グローバリゼーションはあるべくして存在しているものと考えている。しかし最近になって、グローバリゼーションは失業問題に始まり、所得の不平等問題や移民問題に至るまでのあらゆる分野で批判にさらされている。こういった反動は、以前にもあった(ブレグジットやその他の国家主義的運動を思い出してほしい)が、現在は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のまん延によるサプライチェーンの機能不全や、一般イベントのキャンセル、政府による国境閉鎖や旅行の制限といったものに対する恐れによって再び広がってきている。
これはグローバリゼーションの終えんなのだろうか?そしてテクノロジーがその責めを負うのだろうか?あるいは、最新のイノベーションへの対応で後手に回ったり、短期的なものの見方に立脚しているようにしか見えない政策や政治家によって引き起こされた(これついては次の選挙で明らかになるはずだ)意図せぬ結果なのだろうか?
筆者はデジタル変革のリサーチチームを率いるようになって以来、政治的ではなく、ビジネスと技術的な観点からものごとを見るようになった。このため、デジタルテクノロジーによってグローバリゼーションが実現された、あるいは少なくともその流れが大きく加速されたのであれば、デジタルテクノロジーはグローバリゼーションそのものを救うこともできるのだろうかという点を熟考しなければならない。
デジタルテクノロジーの利用によって、企業にグローバルな取引ネットワークがもたらされるとともに、仕事や遊びの新たな形態が生み出され、われわれが使い途を知っている以上のデータが生成されているのは確かだ。またデジタルテクノロジーは、われわれを新たな形態(モバイルアプリやビデオ会議、リッチメディアを想像してほしい)によって引き合わせ、今までは考えられなかったような洞察を得られるようにしてくれ(IoTやビジュアライゼーション、AIによる予測分析を想像してほしい)、複数の業界におけるデマンド/サプライチェーンで大規模な破壊的変革を可能にしてくれる(Uberのようなプラットフォームや、AmazonやAlibabaといったオンラインマーケットプレイスの台頭を想像してほしい)。これらすべてはもちろん、多くの人々に幅広いメリットをもたらす一方で、鉄鋼業界における海外への業務シフトによって引き起こされる失業問題などの、他者へのしわ寄せも生み出している。