Lotus Notesが初めて日本に上陸した1993年ごろ、同製品は全世界で2000社以上、50万ユーザーが利用するなど、大規模利用に耐えるコラボレーション製品として既にある程度の完成形を見せていた。
当時のRelease(R:いわゆるバージョン)は3。R3やR4の時代は、BPR(Business Process Reengineering)ブームもあり、オープン化の流れの中でシステムのダウンサイジングやEUD(End User Development)を可能にし、メールやスケジューリングといったアプリケーションも提供するNotesは広く受け入れられ、「グループウェアといえばNotes」という評判は急速に広まった。
インターネットの波がNotesを飲み込む
その後、転機が訪れる。1995年前後から、怒とうのように押し寄せたインターネット化、イントラネット化の波である。このムーブメントは、IT業界全体を飲み込み、クライアント/サーバ(C/S)アーキテクチャの世界で隆盛を誇っていたNotesも、急速にこの流れに合わせた機能追加を行っていった。
Notes DB内のコンテンツをHTMLとして出力可能にするアドオン「InterNotes Web Publisher」のリリースに始まり、R4.5以降はクライアント側のNotesに対し、サーバ側を「Domino」と命名。ウェブアプリケーションサーバとしての進化を標ぼうし始めた。
1999年のR5の登場ではウェブ統合を表明し、「Domino Designer」による開発生産性の向上を大きくアピールした。しかし、当時のDominoに対しては「ウェブサーバと呼ぶには機能的に弱過ぎる」という評価が与えられてしまった。これが第1の不幸だった。
さらに、追い打ちをかけたのがR5自体のトラブルの多さだった。移行ツールの提供が遅れ、日本語アドレス帳の処理の問題やバグにも悩まされた。当時のユーザーは複雑なアプリケーションを作り込んでいるところが多かった上に、パフォーマンスを上げるために関数の構造まで作り変えているケースもあったことなどが、移行を一層困難にした。
このR5は、Notes史上最もヒットしたバージョンだった。最終的にはグループウェア市場で8割ものシェアを確保することになるのだが、販売数が多かったが故に、最も多くのユーザーに「トラブルが多い」と認知され、さらに「Notesの移行には苦労する」との負の印象を持たれるという結果を招いてしまった。これが第2の不幸だ。
Notesマイグレーションニーズの盛り上がりと合わせてまことしやかに語られる「Notes人気低迷説」には、こうした過去の不幸な経緯も影響しているようだ。もっとも、「Notes/Dominoの人気はその後も衰えず、支持率が(他のグループウェアと)逆転したという印象はない」と語る人物もいる。大塚商会の丸山義夫氏だ。