とはいえ、インターネット第2四半世紀の文字通りキー(=鍵)テクノロジは、「情報の公開」に関するユーザーの参与から「情報の保守」に関するユーザーの参与へと移り変わっていくように思われる。いずれ近いうちに「しょせんはエンジニアだけが関わるバックエンド」という認識は転換を迎えざるを得ないだろうと筆者は考えている。
具体的にはデータ化される対象が貨幣になるとき、業界的に言えばFinTech(Financial Technology)が生活の中に日常的に入り込んできたときがそのタイミングだろう。その際、日本人の「隠匿」についての意識の希薄は少なからず問題となるはずだ。
日本人と「鍵」の文化、そして「ブロックチェーン」の可能性
文化人類学の石田英一郎氏は1965年に成城大学で行われた講演の記録である『日本文化論』の中で、ヨーロッパからユーラシア大陸を横断し、中国、そして朝鮮半島を経由して日本に導入されなかった(もしくは定着しなかった)事象として「雄弁術・弁論術」と「宦官制度」、そして「庶民生活における鍵の文化」を挙げている。以下、該当部分を引用しよう。
それから私は、「鍵」という問題を考えています。西洋の生活をみていると、ホテルでもどこでも、鍵というものが絶対の条件になっています。ヨーロッパを旅して中世の古い家、博物館、あるいは古代の建造物ののこっているものをみると、実に厳重な鍵によって各部屋がしきられる仕組みになっています。鍵の発達には、実に驚くべきものがあります。この鍵でしきるという文化が、私は西洋の文明を非常に特徴づけていると思います。(中略)
それでは、日本の生活においてはどうでしょうか。もちろん正倉院御物などに調度品としての鍵はあります。これは中国からはいったものです。また、日本の城その他で鍵の使用がみとめられるところがあります。それでは一般の市民、とくに農村生活においてはどうでしょう。いちいち家や部屋に鍵をかけるという観念は、私の乏しい知識では日本の農村においては非常に少ないようです。ヨーロッパのように発達した鉄の鍵は、日常生活ではそれほど使用されていません。ことに部屋と部屋の仕切りがふすまと障子の生活においては、鍵というものは用いられません。
文化人類学の石田英一郎氏による講演録『日本文化論』(ちくま文庫)。書籍版は絶版になってしまっているようだが、電子版は安価にダウンロードすることができる。筑摩書房から刊行されている『石田英一郎全集』の第3巻には、この『日本文化論』と共に、やはり欧州文化と日本文化をテーマとした著名な論考『東西抄』が併録されている