大塚商会の創業者であり、相談役名誉会長の大塚実氏の社葬が10月29日、東京・築地の築地本願寺本堂で行われた。業界関係者など400人以上が訪れ、大塚商会の幹部やOBを含め550人以上が参列した。社葬は故人への別れを悲しむように小雨が降る中、しめやかに執り行われた。
しめやかな雰囲気の中で執り行われた社葬。550人以上が参加した
大塚実氏は、関東大震災の前年の1922年(大正11年)10月9日、栃木県益子町で益子焼の窯元の次男として生まれた。1934年に栃木県立旧制真岡中学校に入学、1940年に中央大学予科2年に編入。1943年12月に学徒出陣により、陸軍宇都宮連隊に入隊した。1944年5月、愛知県豊橋市の陸軍予備士官学校に入校し、門司港を出航。同年11月にシンガポールに上陸、シルサ南方軍教育隊に入隊し、1945年4月にビルマ戦線に出征。同年8月に終戦を迎えた。
1947年7月に復員し、同年9月に理研光学(現・リコー)に入社。その後、サラリーマンに限界を感じ、理研紙工業の設立に参画。ルミナ閃光電球、山本商会を経て、1961年7月に38歳で大塚商会を創業した。1998年には、社団法人「日本コンピュータシステム販売店協会」会長に就任。2001年8月には、78歳で代表取締役会長に就任し、社長を実息である大塚裕司氏に譲った。2004年3月に代表取締役を退き、相談役名誉会長に就任した。近年は体調を崩し、療養していたが、2019年9月7日に老衰のため逝去。享年96歳だった。
情報化促進貢献者として「経済産業大臣賞」を受賞し、自然保護活動などにも積極的で、鴨川市の大山千枚田保全、真岡高校の施設保全、千代田区の日本橋川保全活動、益子町の陶芸を通した国際交流活動、熱海市より熱海梅園再生活動などにおいて、それぞれ「紺綬褒章」を受章している。益子町の名誉町民でもあり、日本コンピュータシステム販売店協会の特別顧問も務めていた。
社長時代には、社訓の中に、「亀の歩みは兎より速いことを知れ」という言葉を盛り込み、「これは私にとっての最大の信条」と位置付けていた。この言葉は、兎と亀が競争するおとぎ話からとったもので、足の遅い亀が、足の速い兎に勝つことができたのは、亀は一歩一歩確実に脇見をせずに目的に向かって最短距離を歩いたことが理由だとし、寄り道をせずに目的に向かって歩み続けることが、仕事においても大切であることを社員に説いていた。かつては、同社の社史のタイトルにも「亀の歩み」の言葉が用いられていた。
また、「困難を味方にする」という姿勢を持ち、「困難は耐え忍ぶだけではいけない。困難は進んで味方にするべきもの。また、困難を言い訳の種にしてはいけない。困難を人より先に解決すれば、それが最有力の武器になる。ひとたび味方にしたら、これほど強力な味方はない」と語っていた。
弔辞を述べたリコーの山下良則社長
弔辞ではリコーの山下良則社長が、「大塚商会は、当社にとって最も重要なパートナー。社員に喜ばれ、社員が誇りとし、社員が家族から感謝される会社を作るという志で起業し、社員が仕事を通じて自己実現にまい進できる企業文化を作り上げた。お客さま第一主義やサービスに勝る商法なし、という考えに基づき、お客さまの課題解決だけでなく、社会の課題解決も支援してきた。複写機と感光機の発売から幅広いソリューションの販売へと事業領域を拡大する中で、常にお客さま満足の向上に資する活動に取り組み、確固たる信頼を築いている。今も、築いたその風土が醸成され、一層の飛躍を遂げようとしていることをお伝えしたい」と述べた。
また、「リコーの前身の理研光学に入社し、ほどなく一番の成績を上げた。大手企業を相手にお手伝いできることは何でもするという心構えで、多くの要望に応え、揺るぎない信頼を得たと聞いている。市村(リコー創業者で社長を務めた市村清氏)とは、尊敬、反発、理解、和解といった複雑な経緯があったようだ。困難に打ち勝ち、強い意志を持ち、信念を貫くためには、2人の間には紆余曲折があったことが推察される。人への思いやりと気配りを大事にし、人を愛してやまない2人だからこそ、融和に至ったのではないだろうか。昭和43年に、取引を開始する際に手渡された市村への書簡には、『亀の歩みは兎より速いという信条のもとに、確実に着々とまい進し、3年以内には、東京と大阪でリコーの最大最強の代理店になる』という決意が示されていた。2人の絆(きずな)があったからこそ、2社が切磋琢磨しながら、協力し合える、かけがえのない関係が築かれた。ともに成長を遂げながら、お客さまと社会から存続を望まれる企業として、さらに結束を強めたい。戦争の影響を受けたことから、生きている喜びに深く感謝し、戦友たちの分も含めて、祖国に尽くすことが私の天命であるという言葉を聞いたことがある。美しい自然を後世に残したいという志を持ち、その活動に真摯に取り組んできたことは大きな功績であり、これからも忘れることができない」と語った。
NECの新野隆社長
NECの新野隆社長は、「大塚商会とNECは、1976年にオフコンを販売する特約店契約を締結して以来、43年の長きにわたる付き合いがある。大塚商会は、既にオフコンの販売を開始していたが、大塚実会長の決断により、NECとの取引が実現した。1981年にはPC、ワープロ事業で、1986年に通信機器事業にも取引が拡大した。1992年頃のことだが、NECのサーバー事業に対して、市場のニーズに関して助言をもらい、これが他社に先んじたオープン戦略の展開につながった。両社は、市場変化に適応しつつ、ときには事業戦略も共有し、強固なパートナーシップで歩んできた」と述べた。
また、「創業以来、首尾一貫して『信頼』を大切にしてきたのが大塚商会であり、お客さまへの信頼はもとより、社員や取引先に至るまで、全ての方々との信頼を大切にし、難局に陥った時こそ、その精神を実践してきた。お客さまの役に立つことを第一に考えることで、取引先との信頼関係を永続的に維持していくことは、大塚商会の根底に流れる基本姿勢といえる。日本の企業にとって、大塚商会の存在、影響力は絶大なものになっている。大塚実会長が目指した『世の中になくてはならない会社』として目覚ましい発展を遂げた。今後も企業としての使命は増大し、大きな成果を上げながら発展することになるだろう。そこには大塚実会長の精神が脈々と生き続け、それが原動力になると確信している。大塚裕司社長のもと、これからも風雪を超えて、より一層の発展を遂げることを確信している」と語った。
横浜銀行の大矢恭好頭取
さらに横浜銀行の大矢恭好頭取は、「大正から令和に至るまで、日本の成長を見守り続けた大先輩を失い、深い悲しみとともに感謝の念がこみ上げてくる。大塚実会長が、人生の全てを捧げた作品ともいえる大塚商会とは、創業当初からファミリーといえる立場でともに歩んできた間柄であり、唯一無二のパートナー。現在大塚商会の指揮を執っている大塚裕司社長は、横浜銀行の行員として勤務し、貸付業務を担当していたが、これは後継者としてしっかりと育てたいという大塚実会長の要望によるものだと聞いている。会長の深い見識や人生哲学は、残された私たちにとっても有形、無形の財産である。会社と銀行という垣根を超えて、目の前の若手行員にも語りかけてくれた人柄が、信頼関係の礎になっている。大塚商会と横浜銀行には、中小企業の役に立ちたいという共通の思いがある。この思いはこれからも、次の時代においても変わることなく受け継がれることを願う。偉大な人生の先輩の生き様を学び、その恩返しとして、我々も力強く生き抜きたい」などとした。
あいさつする大塚商会の大塚裕司社長
社葬では、葬儀委員長を務めた大塚商会の大塚裕司社長があいさつし、「サービスに勝る商法なし、社員が家族から喜ばれる会社という創業の精神のもとに、お客さま目線で会社を拡大してきた。創業者としてかけがえのない存在であっただけに、社員一同、衝撃の中にある。私は2001年に社長を引き継いでいるが、大塚商会に入社したのは、会長が創業した時と同じ38歳であり、転職を5回経験したのも会長と同じ。不思議な縁を感じている。これからも創業の精神を引き継ぎ、さらに磨きをかけ、理想の会社を目指すことが、会長に報いる唯一の道であると考えている。決意を新たにがんばっていく」と語った。
大塚商会では、後日に「大塚実氏を偲ぶ会」を開催する計画で、日程や場所は今後発表される。