イトシシラン(Haplopteris mediosora, イノモトソウ科)は、50年以上前に奥秩父山塊で確認されて以来、日本国内では全く記録がなかった幻のシダ植物種である。この種は、台湾〜ヒマラヤの高山に生育しており、日本では既に絶滅したのではないかと考えられていた。東京都立大学 牧野標本館の村上哲明教授らの研究グループは、イトシシランを奥秩父山塊において配偶体の形で再発見し、さらにこの種がこの山塊の広い範囲に独立配偶体として生育していることも同時に明らかにした。
村上教授らの研究グループでは、シダ植物の独立配偶体、すなわち栄養繁殖によって配偶体のみで長期間生育し続けているシダ植物種に着目して研究を行ってきた。今回、奥秩父山塊の幅広い場所で、シダ植物の配偶体マット(配偶体が栄養繁殖を続けたことで、肉眼でも見える数cmのマット状にまで発達したもの)を多数採集した。そして、そのrbcL遺伝子の塩基配列情報を元に種を同定したところ、台湾産のイトシシランと配列が完全に一致し、イトシシランの配偶体であることが判明した。つまり、DNA情報を元に日本国内にイトシシランが確かに生育することを確認することができた。また、極希少種のイトシシランの独立配偶体が奥秩父山塊に広く生育していることも明らかにすることができた。
さらに、秩父山塊のイトシシランの独立配偶体から得られたDNA情報を、海外産のものと比較したところ、奥秩父山塊には台湾、ヒマラヤ地域とそれぞれ一致する2つのDNAタイプのイトシシランの配偶体が生育していることもわかった。これにより、数千km離れた台湾とヒマラヤから、胞子が独立に複数回、奥秩父山塊まで飛んできて独立配偶体として定着したことが推察される。あるいは今から1−2万年前までの最終氷期の寒冷だった時期には、日本国内でも寒冷性のシダ植物であるイトシシランが遺伝子の多様性を保持できるくらいの胞子体の大集団を形成していたのかもしれない。
イトシシランのような絶滅を疑われていた極希少なシダ植物種が、独立配偶体の形で奥秩父山塊に広く生育していたことは、日本のようにシダ植物の多様性と胞子体の地理的分布が詳細に解明されている地域でも、これまでほとんど調査対象になってこなかった配偶体に着目して再調査を行えば、シダ植物の未記録種や、既に絶滅したことが疑われている他の希少種についても再発見できる可能性を期待させる。
2.ポイント
・日本国内で胞子体が確認できたのが3回のみで、1968年を最後に見つかっていなかった「幻のシダ」イトシシランを、奥秩父山塊で配偶体の形で再発見した。
・これまで、奥秩父山塊で3回見つかっていたイトシシランの胞子体は、いずれも胞子を着けていない未成熟個体であった。葉に胞子がどのように着くかは、イトシシランを識別する上で重要な形態形質であるため、イトシシランの種同定を疑う声もあった。今回、DNA情報を用いて確実に種の同定ができたことにより、日本国内にイトシシランが確かに生育していることを明らかにすることができた。
・奥秩父山塊から得られたイトシシランの独立配偶体の詳しいDNA解析を行ったところ、配列が一部異なる2つのDNAタイプが存在していた。さらに興味深いことに、それらはそれぞれ台湾とヒマラヤ地域(チベットとネパール)産のイトシシランから報告されていた配列と一致した。つまり、台湾とヒマラヤからそれぞれ胞子が奥秩父山塊まで飛んできて独立配偶体として定着した、あるいは現在よりも気温が6-8℃も寒冷だった1-2万年前までの氷期には、遺伝子の多様性を維持できるくらい大きなイトシシランの胞子体集団が奥秩父周辺にあった可能性がある。
・今回、極希少種のイトシシランの独立配偶体が奥秩父山塊に広く生育していたことから、シダ植物(胞子体)の種多様性と地理的分布が詳細に解明できている日本でも、まだまだ国内で記録されたことがない種や希少種、絶滅したことが疑われていた他の種が独立配偶体の形で見つかることが期待される。
3.研究の背景
胞子体と配偶体が互いに栄養的に完全に独立して生育しうるのは、陸上植物においてシダ植物のみに見られる特徴である。シダ植物の配偶体は同種の胞子体と比べてはるかに小型であり、野外では認識しにくい。また、形態学的特徴にも乏しく、それだけで種同定をすることが極めて困難であったため、これまであまり注目されてこなかった。ところが、近年DNA情報を活用した種同定技術(DNAバーコーディング技術)の発展により、野外に生育する配偶体の種同定を行うことが可能になり、その結果、既知の胞子体分布の外側から同種の配偶体が次々に見出され始めた。その中には、独立配偶体と呼ばれる無性芽による栄養生殖によって永続的に維持される配偶体も数多く含まれていた。つまり、配偶体だけで存在しているシダ植物も存在しているということである。このことは配偶体が各地域のシダ植物相の種多様性にも大きく貢献しうることを示唆している。
そこで、村上教授が指導する博士後期課程1年の大学院生、日本学術振興会・特別研究員(DC1)である米岡克啓氏が中心になって、シダ植物の独立配偶体を日本国内の様々な場所で採集し、rbcL遺伝子の塩基配列情報を用いて種同定する研究を行ってきた。今回のイトシシランの独立配偶体の発見は、その研究成果の一つである。
4.研究の詳細
イトシシラン(Haplopteris mediosora, イノモトソウ科)は、1955年〜1968年に奥秩父山塊で3回だけ確認されて(写真1)以来、日本国内では50年以上、全く記録がなかった幻のシダ植物種である。この種は、最初は台湾の阿里山から新種として発表され、台湾、フィリピン、そしてヒマラヤの高山に生育している。日本では既に絶滅したのではないかと考えられていた。
一方で近年、村上教授らの研究グループでは、シダ植物の独立配偶体、すなわち無性芽を通じた栄養繁殖によって配偶体のみで長期間、生育し続けているシダに着目して研究を行ってきた。シダ植物は、胞子体と配偶体の二つの世代が存在し、それらが互いに独立して生育しうるのが特徴である。我々が普通にシダ植物として認識しているのは胞子体であり、配偶体はせいぜい1 cm程度と小さく、形も単純でコケ植物にしか見えないものである。
今回、奥秩父山塊の幅広い場所(雲取山、両神山、梓白岩周辺など)でシダ植物の配偶体マット(栄養繁殖を続けることで、配偶体が肉眼でも見える数cmのマット状になるもの)を多数採集した。そして、そのrbcL遺伝子の塩基配列情報を元に種を同定したところ、台湾産のイトシシランと配列が完全に一致し、確かにイトシシランの配偶体であることがわかった(写真2,3)。DNA情報を元に日本国内にイトシシランが確実に生育することを確認できたのである。またイトシシランの独立配偶体が奥秩父山塊に広く生育していることも同時に明らかにすることができた。
さらに、奥秩父山塊のイトシシランの独立配偶体から得られたDNA情報を、海外の台湾産・ヒマラヤ産のものと詳細に比較してみたところ、奥秩父山塊には台湾、ヒマラヤ地域とそれぞれ一致する2つのDNAタイプのイトシシランの配偶体が生育していることも分かった。このことから、日本産イトシシランの独立配偶体の起源について、以下の2つの可能性が考えられた。(1)胞子の長距離拡散により台湾とヒマラヤ地域の胞子体生育地から独立に移入して日本に定着した。しかし、日本の環境は寒冷地性のイトシシランの胞子体を維持するためには不適であり、胞子体世代より環境耐性に優れた配偶体が独立配偶体として生育し続けている。(2)イトシシランは寒冷地性のシダ植物であり、1-2万年前までの最終氷期(日本は旧石器時代)には、日本の低山地にもイトシシランの胞子体が大きな集団を形成して生育していた。その際には、種内に遺伝子多様性も見られ、2つ以上のDNAタイプが存在していた。その後、縄文時代以降の気温の上昇に伴って奥秩父山塊の標高の高い地域のみに生育地が縮小した。さらに気温が上昇すると、高温に対する環境耐性で配偶体に劣る胞子体は生育できなくなり、現在はイトシシランの配偶体だけが生き残っている。これらの仮説を検証するためには、奥秩父産の独立配偶体集団と海外の胞子体集団とのゲノムレベルでの比較解析を行い、その遺伝子多様性を網羅的に調査する必要がある。
【画像: (リンク ») 】 写真1 1968年に奥秩父で採集されたイトシシランの標本(国立科学博物館所蔵)
【画像: (リンク ») 】 写真2 奥秩父で発見されたイトシシランの配偶体
【画像: (リンク ») 】 写真3 先端に無性芽(これで栄養繁殖をする)を着けたイトシシランの配偶体
【論文情報】
<タイトル>
Hidden diversity of ferns: Haplopteris mediosora have survived as independent gametophytes in Japan.
<著者名>
Yoneoka K, Hori K, Kataoka T, Fujiwara T, Ebihara A, Murakami N.
<雑誌名>
Acta Phytotaxonomica et Geobotanica, 74, 1-15.(論文公開日:2023年3月15日)
<DOI>
(リンク »)
5.研究の意義と波及効果
日本は世界的に見ても、750種を超える個々の日本産シダ植物種が、どこに生えているかまで詳細に解明されている地域である。ただし、これは胞子体の分布についてである。イトシシランのような日本国内で絶滅が疑われていた極希少なシダ植物種が、独立配偶体の形で奥秩父山塊に広く生育していたことは、これまでほとんど調べられてこなかった配偶体に着目して再調査を行えば、日本国内でもシダ植物の未記録の種や、既に絶滅したことが疑われている他の希少種についても再発見できる可能性があることを期待させる。また、絶滅危惧種とされていたシダ植物種が、実は主として独立配偶体として生育していることが分かれば、その保全政策をどのようにするかについても考え直さなければならない。本研究は、日本の植物相の解明に大きな波及効果が期待できるのみならず、野生シダ植物種の保全にも大きな影響を及ぼすものである。
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