戦後70年 難波とダンス パネル展
■2015年7月29日(水)~8月3日(月)
■高島屋大阪店7階 特設会場
戦後70年を迎えた本年夏、昭和20年代にミナミで活況だったダンスホールを期間限定で復活させると共に、戦災を受けた難波周辺、また戦後まもなく復興したダンスホールの様子を写し出した写真パネルを展示いたします。
第二次世界大戦の大阪大空襲で、大阪は大きな被害を受けました。その後、終戦を迎えました。そんな暗い雰囲気を払拭するため、戦前に大阪ミナミで活気あふれていたダンスホールを再度復活させる機運が高まりました。
終戦から丸2年経った昭和22年8月15日に、復興のシンボルともなるダンスホールが高島屋にオープンしました。
百貨店が手がける安心感と健全さで好評を博し、25年に南海難波駅ホームの改装に伴い営業終了するまで連日大盛況でした。
戦災を受けた大阪店高架下大食堂街跡をダンスホールに改造し、1950年までの3年間営業を続けました。戦災を被ったままになっていた大阪店の大食堂跡地に、昭和21年9月、同街のサロン食堂跡に喫茶を主とする食堂を復活しました。しかし、食糧統制強化により材料不足で数ヶ月で閉鎖。その後、流行のダンスホール経営を試みることとなりました。
当初会員制ダンス教習所「高島屋ボールルーム」として22年8月15日にオープン。大きなスピーカーでレコード音楽を流し、高島屋養成の40名のダンス助教師を配して営業しました。男子従業員の制服は軍隊の払い下げを染め直し、ダンサーももんぺ姿で教育を受けました。
昭和23年10月、ダンスホールとして営業許可下がり、チケット制で一般公開しました。
バンドマン約20名、ダンサー約100名と専属契約を結び、連日音楽に合わせてダンスを楽しむ人々で大盛況でした。京マチ子主演映画「地下街の弾痕」のロケで使用されるなど、話題のスポットでもありました。
昭和25年9月、駅ホームの改装工事のため惜しまれながら幕を閉じました。
1947(昭和22)年 ダンスホール開業
戦災を受けた大阪店高架下大食堂街跡をダンスホールに改造し、1950年までの3年間営業を続けました。戦災を被ったままになっていた大阪店の大食堂跡地に、昭和21年9月、同街のサロン食堂跡に喫茶を主とする食堂を復活しました。しかし、食糧統制強化により材料不足で数ヶ月で閉鎖。その後、流行のダンスホール経営を試みることとなりました。
当初会員制ダンス教習所「高島屋ボールルーム」として22年8月15日にオープン。大きなスピーカーでレコード音楽を流し、高島屋養成の40名のダンス助教師を配して営業しました。男子従業員の制服は軍隊の払い下げを染め直し、ダンサーももんぺ姿で教育を受けました。
昭和23年10月、ダンスホールとして営業許可下がり、チケット制で一般公開しました。
バンドマン約20名、ダンサー約100名と専属契約を結び、連日音楽に合わせてダンスを楽しむ人々で大盛況でした。京マチ子主演映画「地下街の弾痕」のロケで使用されるなど、話題のスポットでもありました。
昭和25年9月、駅ホームの改装工事のため惜しまれながら幕を閉じました。
お問い合わせにつきましては発表元企業までお願いいたします。