デンマーク人とインド人のコンビで活動する現代美術作家“ポース&ラオ(Pors and Rao)”に会った。彼らは9月5日から始まった「福岡アジア美術トリエンナーレ2009」の招待作家で、その展示のために来日している。
彼らの作品は、所謂美術品ではなく、テクノロジーを駆使して観客とのインタラクティブ性を重視した作品を制作し、そこにテクノロジーの危うさや逆に人間性の機微を表現する。
人が消去される
東京で会ったので、まだ福岡の作品は見ていないのだが、“Missing Person”という作品について説明してくれた。その作品では、ビデオカメラとモニタが設置された部屋に4〜5人の観客が入れるようになっている。
観客は、自分たちがモニタに映し出されているのを確認できるのだが、よくよく見ると、1人がモニタから消し去られているのだという。つまり、4人いるのに3人しか写っていないというような状況が生じる。もしかすると、自分自身が消し去られている可能性もある。
実際どんな風に見えるのかは、展示作品を体験してみないと何とも言えないが、撮影された映像から人物部分を抽出し、そのうちの1人を消し去ってモニタへ映像を送信するというようなプロセスが裏に存在しているのだろう。その作品を体験すると何を感じるだろうか?
意図的であるか偶然であるかは別としても、徐々にアイデンティティそのものがデジタル化されていくわれわれは、テクノロジーによって生かされもすれば、殺されもするという存在の危うさを、この作品から感じ取るかもしれない。あるいはわれわれ自身の知覚に対する自信の揺らぎというものを感じるかもしれない。つまり、本当にわれわれが見ているものは、そこに存在しているのかという問いである。
テクノロジーによって拡張される脳
TechCrunchにEric Schmidt氏のインタビュー記事が載っていた。そこでは、冗談半分で脳とコンピュータを直結し、脳が考えたことを即座にコンピュータ側でも処理する仕組みが語られている。
言うなれば、われわれの脳はローカルコンピュータであり、その脳がインターネットに接続されれば、コンピューティングリソースのサービス利用ということになる。これによって、わずかなコストでわれわれの脳は拡張されるのである。巨大なCPUとハードディスク、そして高速の検索エンジン。そして、われわれの脳は徐々にシンクライアント化する。
しかし、ポース&ラオの作品に見られたようなテクノロジーの危うさは、コンピュータを脳の拡張として利用していくことの恐ろしさを教えてくれる。
脳と直接会話するコンピュータは、われわれの考えを即座に理解して、われわれの脳を直接的に刺激する。そこに誤った情報や作為的な情報があれば、それは何のフィルターもなく脳に取り込まれることとなる。今はもちろん直接接続はされていないが、視覚や聴覚という標準的なインターフェースを通じて“疎結合”はされているのである。
一方でポース&ラオの作品が喚起するのは、われわれ人間の脳が見たいもののみを知覚し、現実を自ら捻じ曲げるという現実である。その点、テクノロジーはしばしば非常に正直なものである。さて、われわれは何を信じて生きて行けばよいのだろう?
筆者紹介
飯田哲夫(Tetsuo Iida)
電通国際情報サービスにてビジネス企画を担当。1992年、東京大学文学部仏文科卒業後、不確かな世界を求めてIT業界へ。金融機関向けのITソリューションの開発・企画を担当。その後ロンドン勤務を経て、マンチェスター・ビジネス・スクールにて経営学修士(MBA)を取得。知る人ぞ知る現代美術の老舗、美学校にも在籍していた。報われることのない釣り師。
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