——当時あなたは大学院生でした。ヘルシンキ大学の教授から後押しはありましたか?
そうですね。Linuxの開発はほとんど常にと言っていいほど、目立たないように進めていました。これは大学のプロジェクトではなく、そうするつもりもありませんでした。とはいえ、ヘルシンキ大学(少なくともコンピュータサイエンス学部)は非公式な「課外活動」に対して非常にオープンなスタンスを採っていました。
わたしはどのようなかたちにせよ、Linuxが特別なものであるとは考えていませんでした。たまたま大きなものに発展したというだけです。特別なやり方で作業する必要があったとか、大学によって認可された公式プロジェクトのみがリソースを与えられるなどと感じたことはありません。
例を挙げると、コンピュータサイエンス学部は、Linuxマシン上で「X Window System」を実行し、シンクライアントとして試用する(その後、大々的に利用するようになった)だけでなく、サーバルームに設置されていた「DEC Alpha」搭載マシンでもLinuxを稼働させるようになりました。大学でのLinuxの使用はまったく珍しい話というわけではありませんが、大学側は自らのお膝元で推進されているクールなプロジェクトという理由で特にオープンだったと考えています。
——LinuxがGNUやMINIX(Andrew Tannenbaum氏の開発した教育用の「UNIX」ライクなOSであり、当時は革新的なフリーソフトウェアだった)を超える存在になりそうだと気付いたのはいつでしょうか?
それは割と早くに感じました。1991年のクリスマス頃にディスクへのページング機能の開発を始めた時のことです。Linuxはその時点でMINIXにない機能を実装していました。リリース番号が0.03(おそらく1991年11月)から0.12(1992年1月)に大きくジャンプしたのも、そういった理由があったためです。
このような機能は正確に言えば革新的なものではありませんでした(人々はMINIXの拡張機能としてページングなどを既に実装していました)。けれども、わたしがMINIXで使っていなかった機能をLinuxが実装し始めたということが1つの気付きとなっています。
1992年の夏にはX Window Systemが動作するようになり、Linuxはわたしが使っていたMINIXとはまったく違ったものになりました(ただ、MINIXがその後どのように変わっていったのかは把握していません)。
その後の変化は極めて緩やかであり、1992年の初めに経験したような、知らない人たちが実際にLinuxを使い、機能を追加しているという気付きに匹敵するようなものはありませんでした。