オープンであればいい
Linuxの初リリースから今日まで、無償かつオープンなコードという聖戦が数十年にわたって繰り広げられてきている。しかし、Torvalds氏が最初に直感したことは間違っていなかった。すなわち、ソフトウェアは必ずしも無料である必要がないということだ。ソフトウェアに必要なのは、開発者の手を煩わせるような雑事を最小限に抑えるだけの十分なオープンさだけなのだ。
Amazon Web Services(AWS)が、企業コンピューティングにおける今後の10年間を支配するというのもここに理由がある。同社はプロプライエタリなソフトウェアサービスを販売している。とは言うもののそういったサービスは、クレジットカードで気軽に支払えるだけの妥当な価格で容易に入手できる。80億ドルのビジネスを生み出すだけの十分なオープンさが実現されているのだ。
ソフトウェア企業のAtlassianが、オープンソースを愛する開発者にプロプライエタリなソフトウェアを販売し、数十億ドル規模のビジネスを作り上げているのもここに理由がある。同社のコラボレーションツールはかなり安く、思い立ったらすぐにダウンロードできる。
Tim O'Reilly氏も2年前に、このようなことがオープンなデータで何故機能するのかについて語っていた。
オープンというものには、実利的なものと観念的なものが存在する。実利的なオープンとは、利用可能な状態となっているものだ。それはタイムリーかつ、差別のないかたちで利用可能になっているため、誰もが同じようにアクセスできる。ウェブ上で現在利用可能になっている、われわれの多くのアプリを見てもらえれば分かるだろうが、広告収入でサポートされ、無償となっているため、オープンのさまざまなメリットを享受できている。コストが十分に安ければ、実際のところ日用品とほとんど同じ条件になるのだ。
Torvalds氏に話を戻そう。同氏がLinuxをオープンソース化した時、オープンソース化が実際の目的ではなかった。成果物に対するコメントを求めることが目的だったのだ。そして現在までに同氏は、より大きな価値を生み出した。その価値は同氏の「私のコードに対して他の人ができることを制限したくない。ただ改良点をフィードバックしてほしいだけだ。しかし、彼らがコードに対して何かとんでもないことをしても、それは彼らの選択なのだ」という言葉によく表れている。
詰まるところ、Linux Torvalds氏がわれわれに残した最大の贈り物は同氏のコードではない。コードを共有するための同氏の実践的なアプローチなのだ。
この記事は海外CBS Interactive発の記事を朝日インタラクティブが日本向けに編集したものです。