梗概
現代社会は多くのものがソフトウェアで成り立っており、絶えず変化するニーズに応じられる柔軟でスピーディーな開発が求められています。その一方、何が正解(ゴール)なのかが分からない、という不確実性の時代でもあります。不確実性に対処するには「アジャイル開発」が最も有望ですが、その成功裏の実践には、従来の常識の解体と再構築が必要です。エンタープライズにおけるアジャイル開発の実践が待ったなしの状況の中、理論、課題、近年の動向も踏まえ、実例を交えながら幅広く解説します。
あなたにとって何がモチベーションですか?
前回は、チームメンバーから発信された「負のフィードバック」は、プロジェクトに制御と安定をもたらすものとして重要であり、負のフィードバックシグナルをキャッチして状況の改善、さらにはチームの成長に役立てることが重要であることを解説しました。今回はアジャイル開発の文脈において、開発者のモチベーションや、それらを1つの方向に向かわせ、力を発揮してもらう上で欠かせないリーダーシップの望ましい在り方について考えてみます。
一般的にモチベーション(動機付け)とは、人や動物に、ある目標や目的に向かって行動を起こさせ、その達成や到達を目指して行動を継続・調整する過程や機能、と定義されています。したがって、モチベーションは一人一人の考え方や志向により異なり、決まった正解はありません。ITのプロジェクトに参画している開発者を例に考えてみると、自身の知識や経験を総動員し、挑み甲斐のある要求を実現したり、技術的な問題を解決したりすること(達成動機付け)、新たなことを学び、それまで解らなかったことが理解できるようになったり、できなかったことができるようになったりすること(内発的動機付け)があります。さらに、これはその結果として得られるものと捉えるケースが多いかもしれませんが、関係者からの感謝や賞賛、金銭的報酬、昇進(外発的動機付け)なども含まれることでしょう。
米国の心理学者のH. Harlow氏はかつてアカゲザルというサルを用いた実験を行いました(注1)。飼育していたアカゲザルのケージ内に、ピン、フック、掛け金の3つを組み合わせたパズルを取り付けて10日間観察したところ、サルたちはパズルを解くための正しい順番を学習し、確実に解決しました。この期間中、外発的動機付けのための食物報酬は与えられていません。さらに、ボルトなどを加えたより複雑なパズルを用いた実験や、10時間にも及ぶ食物抜きで行った実験においてもサルたちは確実にパズルを解決し、その正答率は食物報酬の有無と相関関係が認められなかったばかりか、食物報酬はパズルを解く行動をむしろ阻害する、とHarlow氏は結論づけています。
(注1)H. Harlow, Learning and satiation of response in intrinsically motivated complex puzzle performance by monkeys. Journal of Comparative and Physiological Psychology, #43, 1950, P289-294ほか
また、R. Butler氏が行ったアカゲザルを使った色の識別実験(注2)においては、正解の色のドアを押すと、食物報酬の代わりにドアが開いて外の景色が30秒間見えるというものでした。また、ドアの外の景色に動く汽車の模型や仲間のサル、食べ物などを置くと、それらに対する決まった嗜好を見せることも分かったと言います。さらに、これらの外的刺激の誘因は視覚に頼らない音だけでも有効であることが分かりました。
(注2)R. Butler, Discrimination learning by rhesus monkeys to visual-exploration motivation. Journal of Comparative and Physiological Psychology, #46, 1953, P95-98ほか
これらの興味深い実験の結果が示すところは、サルたちにはパズルを解くことそのものが「モチベーション」であり、その根底にあるものは自律性(自分から興味を持った)、習熟(何度もトライしているうちにできなかったことができるようになる)、目的(食べ物がもらえるからではなく、純粋にパズルを解くのが楽しいから)なのです。これはサルであれ人であれ、高等な哺乳類が示す「新奇」なものへの興味であり、多分に「遊び」の要素を含むものと言えるでしょう。人やサルに本来的に備わっている欲求で、やるなと言われてもやらずにはおれず、これに関心を向け、労力を集中させて遂行すること自体が欲求の充足、「楽しい」という報酬であり、「やりがい」なのです。
ナレッジワーカーを率いることについて
新奇なものへの興味や遊びの要素が、モチベーションの一大要素として機能するのがITの世界の特徴です。しかし、今日のITの世界がこれまでと決定的に違う点として、技術の進歩が恐ろしく速く、かつ領域が広がっていることが挙げられます。そんな状況の中、1人で全ての技術要素を理解しさばいていくことは困難であり、そんなフルスタックなエンジニアは、そうありたいという意気込みは素晴らしくとも、現実には滅多にお目にかかれるものではありません。それに伴い、エンジニアのマインドの在り方にも変化が求められています。自分一人でさまざまな領域のエキスパートを目指すよりも、特定の領域については誰にも負けない知見を持ちつつ、専門外の領域についてアンテナを張り、誰に尋ねればよいかを知っている、そういう仲間やコミュニティーを持っている、といったことが重要になってきます。
この変化は、リーダーシップの在り方にも変化を迫ります。人は技術的に優れている、統率力があるなどの理由でリーダーに抜擢され、チームを率いるようになっていくわけですが、ことITに関して言えば、リーダーの知識や経験の量はメンバーとして参画するエンジニアのそれと比較してかつてよりどんどん小さくなってきています。むしろリーダーよりもメンバーの方が知識を多く持っていることも普通で、著名な経営学者であるP. Drucker氏は、そのような労働者を「ナレッジワーカー」と名付けました。