「2025年はARグラス元年になる」。拡張現実(AR)グラス用ディスプレーなどを開発するCellid(セリッド)代表取締役CEO(最高経営責任者)の白神賢氏は、ARグラス市場の立ち上がりを確信し、量産体制の整備に着手した。その一環から、2025年4月に金融会社などを引受先とした第三者割当増資を実施し、約11億円の資金を調達。累計の調達額は約64億円になる。

Cellid 代表取締役CEOの白神賢氏
白神氏は大学で素粒子物理学を専攻する中、ビッグデータの生成、蓄積、処理に必要なニューラルネットワークやグリッドコンピューティングなどのコンピューティングの研究にものめり込んだ。それを通じて、画像や空間などの検索に活用するウェアラブル時代の到来を予測し、2016年にセリッドを設立したという。
ARグラスの普及には幾つか課題があった。1つは、ディスプレーとなるレンズの重さを普通のメガネと同等にすること。それまでのレンズの厚さは約2cmもあり、重く使い勝手が悪かった。薄くて軽いレンズの開発には、光学技術に加えてナノメートルを実現する半導体の加工技術などが必要だ。日本にはこうした光学や加工、さらに材料や組み立てなど薄型レンズの開発に必要な技術がそろっている。
市場を調べる中で白神氏はレンズの開発に取り組む企業が少ないことが分かり、自ら技術を習得し、開発することにしたという。幸い、光学の研究開発に詳しく、オリンパスで内視鏡の開発に携わっていた生水利明氏が2018年にチーフエンジニアとしてセリッドに入社した。白神氏によると「彼はどこにどんな技術や材料などがあることを知っている」という。そこに、光学や材料、スマートフォン、ディスプレーなどの技術者が加わった。彼ら、彼女らはチャレンジできる場を求めていたこともあった。「中国に渡った日本の技術者らが日本に戻ってきた時期でもあった」(同氏)。この開発チームが1年超の時間をかけて2020年に試作品を開発し、さらに大きな映像を移せるレンズを2021年に開発した。
セリッドはARグラスを作るのではなく、ARグラスのキーコンポーネントのレンズを開発・販売するビジネスをする。ARグラスそのものを作れば、スマートグラスを近く商品化すると見られているAppleなどとの競合は避けられなくなる。「豊富な資金や人材などのリソースを持つ彼らと戦えるのか」と白神氏。勝つには、光学技術やソフト技術などを生かしたレンズの開発に特化し、「いわばIntel入っている」作戦を展開しようと考えた。日本には、ARグラスの開発や量産に向けたパートナー企業がそろっていることもある。同社の設計能力やソフト技術力などに加えて、材料技術や加工技術、製造装置などを持つ企業らが同社に出資もする。
そんな中、材料にプラスチックを使用した視野角70度のレンズを光学に関する学会で発表したことで注目を集めた。こうしたことを契機に、欧米やアジアの企業に売り込みを始めた。これは、ARグラスを受け入れる市場環境が整ってきたこともある。その要因の一つとして考えられるのは、ARグラスに対する見方の変化だ。2013年に登場した「Google Glass」はプライバシーの問題から販売中止に追い込まれたが、あらゆる場所に防犯カメラが設置されている今、ARグラスへの違和感は薄れているだろう。加えて、2023年10月にはMetaのスマートグラス「Ray-Ban Meta」が発売された。同グラスの累計販売台数は200万台を超す。メガネの拡張でディスプレーを搭載していないものの、ARグラスの普及を間違いなく後押しする。
そこで、セリッドはリファレンスモデルを用意することにした。レンズの提供だけでは特徴を理解してもらえないと思ったからだという。まず、ARグラスを活用したビジネスを検討する企業やアプリの開発に取り組む企業らに貸し出し、ユースケースを作る。軽量を重視する企業には、インフォメーションディスプレー、つまりディスプレーに情報を表示する視野角30度と50度のレンズを準備する。スマートウォッチのように使うもので、例えば翻訳アプリを搭載し、外国人との会話を日本語に翻訳し、ディスプレーに表示するなどだ。顔認証によって前回の打ち合わせ内容を表示することもできる。
一方、より鮮明な映像を重視する企業には60度と70度を準備する。大容量タイプのバッテリーを搭載するため、やや重くはなるものの、コンピュータービジョンを使ってよりきれいな映像を映すレンズの開発も進めている。
白神氏は、スマホが決済の仕組みを大きく変えたように、「ARグラスが変える」と予想する。ARグラスでできることは、瞳による虹彩認証もある。例えば、消費者が店舗である商品を手に取れば、ディスプレーにクーポンを発行するなどだ。こうしたマーケティングの実証実験(PoC)の場も確保する。
また、通信事業者らもARグラスに期待しているという。スマホとの連携で新たな需要を生み出せるとしており、例えば医療の遠隔支援や学習、接客などの使い方も模索している。それらを提案するため、同社のエンジニアらが世界を飛び回り、レンズの評価や量産の商談を進める。OEM供給も視野に入れており、ターゲットは、スマホに近い価格の500~1000ドルのARグラスになる。
この4月に35歳になった白神氏は「量産の立ち上げに注力し、飛躍の年にする」と、世界中で同社のディスプレーを搭載したARグラスが使われる時代を想像する。

- 田中 克己
- IT産業ジャーナリスト
- 日経BP社で日経コンピュータ副編集長、日経ウォッチャーIBM版編集長、日経システムプロバイダ編集長などを歴任、2010年1月からフリーのITジャーナリスト。2004年度から2009年度まで専修大学兼任講師(情報産業)。12年10月からITビジネス研究会代表幹事も務める。35年にわたりIT産業の動向をウォッチし、主な著書は「IT産業崩壊の危機」「IT産業再生の針路」(日経BP社)、「ニッポンのIT企業」(ITmedia、電子書籍)、「2020年 ITがひろげる未来の可能性」(日経BPコンサルティング、監修)。