FacebookのIPO騒ぎも収まり、主要メディアの一部はこれが「ソーシャルメディア」バブルの終焉だと言い始めている(彼らがこの言い回しをどのように見ているのであれ)。流行語は現実の妨げになることがある。確かに、主に一見収益化が不可能な日常的な写真や画像のアップロードの膨大な集合であるFacebookは、中年時代にさしかかったインターネットの代表格になり、その変化の速さは急激に加速し、単に「ソーシャル」なアイデアについて考えるという段階を追い越してしまった。
どんな事業計画の本を読んでも、自分の町に1万人住んでいるからといって、その全員が自分の店に来てレモネードを買ってくれるわけではないと警告する部分があるはずだ。10億人がみなFacebookの継ぎ目のないグローバルなウェブサイトにアカウントを持ち、相互につながっているという事実は驚くべき快挙だが、今回の新株発行で証明されたように、たとえユーザーにとって中毒性の高い高品質なものを提供していたとしても、その無料サービスの商業的価値については大きな疑問符が付いている。
未だ続いているWeb 2.0とモバイル開発の爆発も、一部で同様の問題を抱えている。Web 1.0ドットコムの時代に、ウェブのバナー広告はあと数カ月で魅力的で新しく賢いマーケティングパラダイムによってオンライン上から一掃されると言われていたのと同じように、この2年間は誇大広告が多く、実践的なリアリティが不足気味だった。実際にはバナー広告は現在でも見られるだけでなく、有料のキーワード広告や電子メールによるマーケティングとともに、オンライン広告の主要な形態の1つであり続けている。Facebookも同じように、高い勉強代を払ったところだと言えるかもしれない。10億人分のユーザーアカウントを持っているが、商業的な活動がほとんどない無料のウェブサイトを運営することは、Bordersが高い経費をかけてコーヒーを読みながら本を読めるエアコンの効いた場所を提供したのと似ていなくもない。そこで客は、スマートフォンを使って値引きしてくれる店に行き、またAmazonで本を注文するのだ。
Bordersは結局うまくいかなかったが、Bordersの創設者の1人であるBorders氏はドットコムバブルでつぶれたオンラインスーパー、Webvanも設立している--誰もがそこで、サプライチェーンについて教訓を得たはずだと思うだろう。この現象は大型小売店舗を追い込みつつあるが、現在広告業界と必ずしもうまくいっているとは言えないFacebookにとっても、アキレス腱だと証明されることになるかもしれない(Facebookは広告にこそ将来の利益があって欲しいと思っているようだが)。
「e」時代(eメール、eコマースなど)や「2.0」(Web 2.0、Collaboration 2.0など)と同様に、「ソーシャル」という言葉も、ソフトウェアやモバイル製品の機能が「新しい」ことを示す言葉、あるいは差別化する言葉として頻繁に用いられるようになる以前には、それなりに焦点が絞り込まれた、しっかりした語感を持つ言葉として始まった。これらの用語は本来の使途よりも長生きし、あまりにも多くの異なる文脈と重すぎる荷物を背負ってしまったため、便利さよりも紛らわしさの方が大きくなってしまった。デジタルの動画、音声、アニメーション制作などを指す、インターネット以前の古い用語である「マルチメディア」も、すぐにそれ自体が大きなカテゴリーになってしまったように、今や「ソーシャルメディア」も意味が広く曖昧な用語で、ビジネスや学習、その他の分野で使われる「ソーシャル」の接頭辞は、疑いなく進化を制約している。われわれは今、運が良ければ「ソーシャルメディアによる影響力のある人物」の時代の終わりにいると思われる。この時代は、フォロワーを率いることに関しては、信頼できる物や、フォロワーたちと「共有」しているアイデアや情報の品質や正確さよりも、大衆に訴えかける個人的なデジタル広報スキルに負うところが大きい。
では、次に来るのは何だろうか。もちろんモバイルスマートデバイスへの急速な移行は、われわれのデジタル利用パターンに大きな影響を与えているが、基本的なことは同じままだ。「ソーシャル」は多くの異なる軸に分割され、多くの場合、背景の一部になってしまっている。