今では、世界中のあらゆる企業がオープンソースソフトウェアを使っている。かつては最大の敵だったMicrosoftも、今ではオープンソースの熱心な支持者だ。Windowsでさえ、オープンソースの技術を使って作られるようになった。Googleで検索をするにしても、Amazonから本を買うにしても、Netflixで映画を見るにしても、Facebookで友人の休暇の写真を見るにしても、裏側ではオープンソースが使われている。2018年2月3日に20歳になったばかりの、まだ新しい技術的アプローチとしては、なかなかの成果だと言っていいだろう。
フリーソフトウェアはコンピュータが初めて登場した頃から存在したが、フリーソフトウェアとオープンソースの概念は、どちらも比較的新しいものだ。1970年代と80年代には、独占的なソフトウェアを作ることによって利益を上げようとする企業がいくつも設立された。生まれたばかりのPCの世界では、フリーソフトウェアのことはほとんど知られていなかった。しかし、UNIXやITS(Incompatible Timesharing System)が主流だったインターネットでは、事情が違っていた。
70年代の後半、当時マサチューセッツ工科大学(MIT)のプログラマーだったRichard M. Stallman氏(RMSとも呼ばれていた)は、プリンタのユーティリティを自分で書いて使っていた。しかし、ある日キャンパスに届いた新しいレーザープリンタのソフトウェアにはソースコードが付いていなかったため、Stallman氏はこれまで使っていたユーティリティの機能を、そのプリンタで利用できるようにすることができなかった。怒りを覚えたStallman氏は、「フリーソフトウェア」の概念を生み出した。
同氏の目標は、フリーなOSのカーネル「Hurd」を作ることだった。そのため同氏は、1983年9月に「GNUプロジェクト」の立ち上げを発表した(GNUは「GNU’s Not Unix」の略だとされている。再帰的な頭字語だが、当時はこのような頭字語を使うのが流行していた)。同氏は1984年1月に、フルタイムでこのプロジェクトに取り組み始めた。Stallman氏は開発を支えるため、オープンソースのコンパイラ群となる「GCC」や、OSのその他のユーティリティを作った。また同氏は1985年の前半に、フリーソフトウェア運動の基本綱領である「The GNU Manifesto」を発表し、Free Software Foundation(FSF)を設立した。
Stallman氏の活動は数年間は順調に進んだが、独占的なソフトウェアを販売する企業との衝突は避けられなかった。同氏が開発したエディタ「Emacs」から派生した「Gosling Emacs」がUnipressに買収されたことが1つの転機になった。同社はこれを独占ソフトウェアとして販売し、Stallman氏にソースコードの配布を停止するように迫った。Stallman氏は、このような事態が再び起きるのを避けるため、1989年に「GNU General Public License」(GPL)を生み出した。これが世界最初のコピーレフトライセンスだ。このライセンスは、ユーザーに対してプログラムのソースコードを使用、コピー、配布、修正する権利を与えている。ただし、ソースコードに変更を加えて他人に再配布する場合、修正したコードを共有することが義務づけられた。これ以前にもフリーソフトウェアのライセンスは存在したが(例えば1980年代に作られた、4項目の条文からなるBSDライセンスなど)、フリーソフトウェア・オープンソース革命を起こしたのはGPLだった。
1997年には、Eric S. Raymond氏が「伽藍とバザール」と題した重要なエッセイを発表した。同氏はその中で、GCCや、Linuxカーネル、自分自身のプロジェクトである「Fetchmail」での経験などを例として示しながら、フリーソフトウェアの開発手法が持つ利点を明らかにした。このエッセイが示したのは、フリーソフトウェアの強みだけではない。同氏が説明したプログラミングの原則は、アジャイル開発やDevOpsへの道を切り拓いた。21世紀のプログラミングパラダイムは、Raymond氏に非常に多くのものを負っている。