また、他人が社会的に受容できない振る舞いをしている時には、それを指摘すべきだし、自分自身がその問題に取り込まれないようにすべきだ。
さらに、私の同僚であるJames Kendrick氏が指摘したように、人間はもっと外に出て、人と交わる必要がある。
以前の記事で書いたように、われわれの社会は、心配事が多く、眠りの短い、ストレスが高いものになりつつある。これに「ライフストリーム」が加われば、われわれはみな、注意欠陥者や社会的無能力者になってしまうリスクを負うことになる。
前述の私のアドバイスはここでも有効だ。デバイスの電源を切り、基本的な社会活動にもっと関与するのだ。他の人と一緒に料理をし、デバイスを手にせずに食卓で話をしよう。
チームスポーツのような、グループで行う運動をするのもいいし、一人で運動をして心を澄ませ、黙想するのもいいだろう。長々と本を読んだり、新聞を読んだりすることは、社会的な活動ではないが、ソーシャルネットワーキングとは違う形で脳を刺激する。
テクノロジは、以前は不可能だった形で人々をつなげることを可能にしたが、それと同時に、人間の最悪の部分を露わにしている。
人間の状態を向上させるものは、すべてよいものだが、1909年に「The Machine Stops」でインターネットの登場を予想したEM Forster氏の言を信じるとすれば、基本的な形の人間の交流に取って代わるものは、われわれを駄目にする可能性がある。
私は、こうしたデバイスの使いすぎや、従来の社交的交流をソーシャルネットワーキングツールで置き換える傾向が、われわれを社会から切り離しているということに、科学的な証拠が必要だとは思わない。また、特に幼い時期からそれらに触れていると社会的スキルの発達を阻害されるということについてもそうだ。
社交に困難を感じたり、自閉症スペクトラム(ASD)や関連する症状(例えばADHDやADD)を抱えている人は、外に出て人と関わり、デバイスに囚われすぎないように意識的に努力すべきだ。
そういった兆候は確かにある。レストランに入ってみれば、テーブルに着いているいい大人が、テーブルの他の人と会話を交わさずに、スマートフォンをいじりながらメッセージを送ったり、「いいね」を押したり、情報を共有したりしているのを見たことはないだろうか。
また、公園に行けば、美しい夏の一日の自然を楽しむのではなく、タブレットやスマートフォンをいじっている人たちがいるだろう。休日なのに、美術館に展示されている貴重な芸術を無視して、仕事の予定や会社のメールを気にしている人もいる。
家族の集まりで、自分の子どもが誰とも言葉を交わさずに、同じ年頃の友人(同じ部屋にいる場合も多い)とメッセージを送り合っているのを目にした人もいるはずだ。
この記事は海外CBS Interactive発の記事を朝日インタラクティブが日本向けに編集したものです。