同氏はさらに、「ガバナンスの問題が重要であることは理解しており、このような変更が行われるときには、異なる意見が出てくることも分かる。それは当然であり、健全なことだ。健全でないのは、開発者コミュニティーで『炎上』が頻繁に起きることだ。残念ながら、今はそれが起こっており、Linux Foundationのガバナンスの変更に関する対話が、コミュニティーの一部のメンバーを対象とする、特にKaren Sandler氏に対する個人的かつ不適切で攻撃的な発言に変わっている」と付け加えた。
さらにZemlin氏は次のように続けている。「Sandler氏は、そのキャリアを通じて、フリーソフトウェアの普及と保護に力を注いできた。これらのコメントや攻撃は、Linux Foundationに関するオンライン上での議論の文脈で行われたものであり、Linux Foundationは、これまで抑制されず、許されることが多かった種類のオンライン上の行動をこれ以上許容することはできず、それに反対することを明言せざるを得ないと感じている」
不適切な発言に対するZemlin氏の態度は賞賛に値するが、Garrett氏とZemlin氏の意見は大きく異なっている。最初の疑問は、「Sandler氏は理事に立候補できるのか」ということだ。このことについてLinux Foundationに問い合わせたが、まだ回答は返ってきていない。
しかし、今回の論争の背後にある本当の問題は、筆者の考えでは、誰がLinux Foundationをコントロールしているのかということだ。ユーザーなのか、それとも企業なのか?
Garrett氏は今回の動きを見て、Linux Foundationはコミュニティーから距離を置き、企業に一歩近づいたと考えた。Zemlin氏はその論点について具体的に触れたわけではないが、「理事を採用するプロセスは、われわれのコミュニティーや業界で活動しているほかの主要な組織と同等のものになるよう、変更される必要があった」と述べていることが、同氏の立場を雄弁に語っている。
それに加え、Garrett氏が指摘している通り、個人がもはや「Linux Foundationの理事会メンバーに立候補したり、投票したりして、団体の方向性に影響を与える」ことができなくなったのは事実だ。
個人的には、今回の動きによって、Linux Foundationに対する企業の支配は強まったと考えている。しかし、金銭を負担しているものに発言力があるのは自然なことだ。そう考えれば、今回の成り行きは驚くようなことではない。
オープンソースのユーザーは、コミュニティーの考え方を愛しているが、「コミュニティー」が主に企業の役員や従業員で構成されるようになってから、もう10年以上になる。いまだにLinuxやオープンソースプロジェクトが、私的な個人によって生み出され、コントロールされていると考えているのは、理想主義的なオープンソース開発者やリーダー、そして(皮肉にも)オープンソースを熱心に批判する敵だけだろう。
またこれまでも、Linux Foundationの理事会の大半を占めていたのは、企業が選出した理事たちだった。それでも、今回のLinux Foundationの判断には、居心地の悪さを感じざるを得ない。Linuxは個人のプロジェクトとして始まり、急速に多くの優れたプログラマーたちの支持を集めた。その出自を考えれば、Linux Foudationを率いるグループには、企業だけでなく、個人の場所もあるべきではないだろうか。
筆者は、オープンソース界の強力で優れたリーダーの1人であるSandler氏が、立候補を許されるだけでなく、理事会に席を得られることを期待したい。 筆者はまた、Linux Foundationが個人に対して、理事会選挙での投票と立候補の権利を復活させることを願っている。これはそれほど大それた願望ではないし、Linux Foundationには大企業だけでなく、力を持たない人々を受け入れる余地もあるという信頼を回復することにもなるはずだ。
この記事は海外CBS Interactive発の記事を朝日インタラクティブが日本向けに編集したものです。