フランスの精神分析医であり思想家、活動家でもあったFélix Guattariは「3つのエコロジー」という短いエッセイの中で、私たちを取り巻く環境の問題について以下のように書いている。
政治団体や行政機関にはこの問題が全体としてどのような帰結に至るかを把握する能力が全くないようにみえる。政治団体や行政機関はわれわれの社会の自然環境をおびやかすもっとも顕著な危険について、最近ようやく部分的に自覚しはじめたけれども、一般に産業公害の領域に――しかもテクノクラート的な見方だけから――アプローチすることで事足れりとしているのである。
しかし、私がエコゾフィーと呼ぶところの、3つのエコロジー的な作用領域――すなわち環境と社会的諸関係と人間的主観性という3つの作用領域――の倫理-政治的な結合だけが、この問題にそれ相応の照明を当てることができるのではないかと思われる。
Guattariが提唱した「エコゾフィー」の思想
Guattariの「三つのエコロジー」は直接インターネットなどの技術に言及したものではないけれども、先に記した「インターネットがもたらす情報世界はもはや私たちの自然であり、生身の身体とも決して切り離すことのできない強度と深度で同期している」という本稿の文脈に沿って考えると、非常に重要な示唆を含んでいるように思う。
第1四半世紀のインターネットとは異なり、第2四半世紀のインターネットは既存の社会基盤や経済基盤、さらに言うと既存の人間観を前提にそれぞれを個別に考えることはできず、環境、社会、人間という3つの要素を横断するような視座でしか捉えらえない。
AI(Artificial Intelligence=人工知能)などと融合しながら多様な変異を遂げるであろうインターネットという情報環境、そこから生み出される新たな経済や新たな規範と共に変容する社会、それらに影響を受け、影響を与え、自らの概念を更新し続ける人間......。
今後はこれらを有機的な連関を持つ1つの生態系として、総合的に眺め渡していく姿勢が必要になるのではないか。
昨今よく指摘されるSNSの相互監視的な息苦しさひとつとっても、社会における多様性への不寛容とセットで考える必要があるだろうし、氾濫する洪水のような情報に対するストレスも、環境と人間との関係におけるエコロジー的な視点から再考/熟考していかなければならないだろう。
フランスの精神分析医、思想家、活動家であるFélix Guattari(1930年~1992年)の「三つのエコロジー」(平凡社ライブラリー)。Gilles Deleuzeとの共著である「千のプラトー」「アンチ・オイディプス」(共に河出文庫)なども現在では文庫で手軽に読むことができる(Amazon提供)