だまされることがなぜ必要なのか
だまされやすいということは、実に頼りないもののように感じられる。私たちの目というのは、なぜ、だまされやすいのだろうか。
実は、だまされるということは、私たち人間にとって、不可欠なものなのである。それを実感するために、次の図をご覧いただきたい。

この図の真ん中に、白い逆三角形のようなものが見えるだろうか。
よくよく考えてみると、これは実に不思議な現象である。
実際は白い逆三角形など、どこにも存在しないにも関わらず、私たちはそれを「見る」ことができる(この図は「カニッツァの三角形」と呼ばれている)。
この現象が、どのように、ご利益があるのか。それを知るために、さらに、次の図(※)をご覧いただきたい。

この図は、コンピュータから見た「写真」の様子を表している。
私たち人間がこの図を見ると、馬が草原にいて、その背景には山々があり、山の麓には村がある、という様子を知ることができる。
ところが、コンピュータにとっては、この図は、そんな豊かな情景とは何の関係もなく、左側に拡大されているような、無味乾燥な単なる「ピクセルの羅列」なのである。
実際に、この図の中に「馬がいるのかいないのか」と問われれば、「単なるピクセルの羅列以外に存在しない(馬などどこにも存在しない)」というのが正解であり、私たちは、そこに馬がいるように誤解している(だまされている)のである。
だが、そんな理解をしていて、日常生活を送れるだろうか。
結局のところ、私たちは、だまされることで世界を見ているのである。換言するならば、だまされることなしに世界を見ることができず、だまされることなしには、生きていくことすらできないのである。
新聞、雑誌、テレビ、PCやスマートフォンの画面などを拡大してみると、次のような見え方をする。

先ほどの「カニッツアの三角形」と同様に、ABCなどの文字を私たちが読んでいるのも、正確には、「読んでいると錯覚している」のであり、だまされているのである。そして、だまされることなしに、文字を読むことは到底できない。
すなわち、だまされることなしに、社会生活は送ることはできないと言えるかもしれない。
まさに、だまされることと、社会生活を送ること(生きること)は表裏一体なのである。
(※)この4月に発売された拙著「人工知能の哲学: 生命から紐解く知能の謎」から抜粋