新年あけましておめでとうございます。
さて、皆さんは年賀状をまだ書かれているでしょうか? 私は、年賀状も創作活動の一環みたいなところがあって、手触り感のあるものを届けたいと思って、作品を印刷したものをいまでも送っています。
今時、新年のメッセージを伝えるだけであれば、デジタルで十分なので、あえて送る、あるいは受け取ることの意味は、送り手の手触り感を受け手に伝えるところにあるように感じています。それは、手書きの宛名だったり、手書きのコメントに醸し出されたりします。
逆に言うと、デジタル化できてしまう印刷された文字やイラストは、ほぼ素通りで、手書きの部分にしか目は行きません。皆さんもそんな感じではないでしょうか。
年賀状なので、手書きのコメントも、たいていは今年チャレンジしようとしていることだったり、何か一緒にやりましょうという提案だったり、私に対する期待だったりと前向きな話であるのが普通です。間違っても深刻な相談などは書いてありません。
でも、そのちょっとした手書きのコメントが、その人のパーソナルな手触り感を伝えてくれます。私宛のものだと、絵を描いていることもあって、展覧会に行きますという宣言だったり、逆に作家だと個展をいついつにやりますなんていうのもあります。
釣りに対する期待感がほとんど感じられないのは、結構不満なのですが、まぁこちらは実績伴っていないので仕方がないですね。
でも、そんな中、友人Mからの年賀状にはこうありました。
「平和ですが、つまらない毎日です」
戌のイラストと「謹賀新年」という文字が印刷されている年賀状に、手書きでそう書いてあるのです。しかも、まさにそんなニュアンスが全面に押し出された細く、退屈そうな文字で。
これぞ手触り感なのですが、ここ5年くらい年賀状の遣り取りしかないMが、年に1回のこのコミュニケーションであえて「つまらない毎日」を伝えてきた真意はどこにあるのでしょう。実に、今年の年賀状の中で最も考えさせられる1枚であったのです。
ところで、1月4日に本の手触り感を求めて蔦屋書店に行きました。そこで手に取った『WIRED』誌に特集されていたのが「Identity」でした。その中に「デジタルアイデンティティの問題系」というマップがあって(P44)、デジタルの時代におけるアイデンティティにまつわる課題が俯瞰できるようになっています。個人情報の保護や監視社会といったようなプライバシーの問題も取り上げられています。
ただ、私がより危機意識を感じたキーワードは、「フィルターバブル」と「確証バイアス」でした。
Wikipediaを引用すると、「フィルターバブル」とは、「インターネット検索サイトのアルゴリズムが、ユーザーの情報(所在地、過去のクリック履歴、検索履歴など)に基づいてユーザーが見たい情報を選択的に推定するような検索結果を出すことが原因で、ユーザーがその人の観点に合わない情報から隔離され、実質的に彼ら自身の文化的、思想的な皮膜(バブル)の中に孤立するようになっていくこと」です。「確証バイアス」は、「仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向のこと」です。
こうしたアルゴリズムは、私たちがデジタルの利便性を追及すればするほどより深く日々の活動に組み込まれていきます。すると、自分に最適化された心地よいデジタル環境ができあがることになります。
Mがどのくらいデジタルな毎日を送ってるかは、年賀状の遣り取りしかない私には知る由もないのですが、デジタル化の極限にはもしかすると「平和ですが、つまらない毎日」が待っていて、Mはそれをデジタルではない方法で伝えようとしたのではないか、などと考えてしまったのです。
別にデジタルそのものに問題がある訳ではないのですが、デジタル化がもたらす課題に対して意識的であることは、デジタル化を促進する立場にあればこそ、とても大切だと感じた年初でした。今年は海釣りだけじゃなくて川釣りもやってみようかな(フィルターバブルを抜け出したつもり)。
飯田哲夫(Tetsuo Iida)
アマゾンウェブサービス ジャパンにて金融領域の事業開発を担当。大手SIerにて金融ソリューションの企画、ベンチャー投資、海外事業開発を担当した後、現職。金融革新同友会Finovators副代表理事。マンチェスタービジネススクール卒業。知る人ぞ知る現代美術教育の老舗「美学校」で学び、現在もアーティスト活動を続けている。報われることのない釣り師