「個人」と「集合知」
テクノロジの進化は、知の集積と伝播の歴史であるとも言える。つまり、テクノロジは、これまで個々人や個々の企業が単独で行わざるを得なかった作業を共同で行うことを可能にし、そこで集積された知を共有することを容易にする。例えばオープンソースのプロジェクトによるソフトウェア開発の成果、あるいは「Wikipedia」がいわゆる百科事典というものを凌駕してしまったという事実は、集合知の優位性を示している。
ところが、昨年出版された『知の逆転』に登場する「現代最高の知性6人」へのインタビューには、集合知に対する否定的な見解が多くみられる。例えば、DANの二重らせん構造を発見したJames Watson氏は、このように言う。
「総意というのは往々にして間違っているものです。あくまで『個人』が際立つ必要がある。科学を促進させるということは、とりもなおさず『個人』を尊重することです」(P267)
人工知能の大家であるMarvin Minsky氏は、更に手厳しい。
「科学の歴史を振り返ってみると、叡智というものは、Isaac NewtonやJohn von Neumann、Alan Turing、Albert Einsteinなどの『個人知能』によってもたらされているのがわかります。わずか100人の個人が知的革命によって西欧の科学というものを形作ってきたわけで、大衆の『集合知能』の方は逆に科学を何百年も停滞させてきたのです」(P186)
主として科学領域についての議論ではあるが、両者に共通するのは、個人が埋没していくこと、集合知に依存することへの危機感である。こうした現代の知の巨人たちの集合知否定論を「成功した知識人が自身を肯定しているに過ぎない」と切り捨てるのは簡単だ。
しかしながら、インターネットを通じた知の集積や伝播の力は、その主役が個人であるにもかかわらず、特定の個人は埋没させてゆくという矛盾をはらむ。結果的に主役である個人の質が低下し、集合知の判断が間違ったものになるリスクがある。知の巨人たちの集合知否定論は、こうした個人埋没によるネガティブな側面に対する警鐘であるとも取れる。
企業における「個人」と「集合知」の問題
「個人」の力を信じるのか、「集合知」を信じるのか、これは企業の組織運営においても重要なテーマである。例えば、ある企業が新しいビジネスアイデアや戦略を考えるに際し、一部の有能と言われる「個人」のみに依存するのか、あるいは、社員全体を巻き込んで「集合知」を活用してアイデアを練るのか。
この二つの間には、その組織が持つべき能力、文化、プロセスなどに大きな違いがある。「個人」に依存する組織においては、継続的に一定数の優れた「個人」が存在し、彼らが組織を正しい方向に導くことが担保されねばならない。「集合知」に依存する組織においては、全ての社員が経営への参画意識を持って事業に取り組む必要がある。
ちなみに、筆者自身は「集合知」の力を信じる立場である。特に、ネットワーク化され、外部の変化を受けやすい環境においては、特定の「個人」による環境認識よりも「集合知」による環境認識の方がより機敏に反応することができると考えるからである。
そこでは、「集合知」を構成する一人ひとりの力に頼ることになる。この点において、知の巨人たちは、そこに潜む矛盾に警鐘を鳴らす。つまり、「個人」には依存しないはずの「集合知」が、実は「個人」の力に依存しているという矛盾である。
「集合知」においては、社員が主役であるにもかかわらず、全員が主役であるが故に一人ひとりが埋没し、経営への参加意識が低下する。個々人がネットワーク化され、社会においても企業においても、個々人が主役となりえる環境であるからこそ、逆に「個人」を埋没させない仕組みが必要になっているということだろう。これは企業の組織運営においても重要な示唆である。
飯田哲夫(Tetsuo Iida)
電通国際情報サービスにてビジネス企画を担当。1992年、東京大学文学部仏文科卒業後、不確かな世界を求めてIT業界へ。金融機関向けのITソリューションの開発・企画を担当。その後ロンドン勤務を経て、マンチェスター・ビジネス・スクールにて経営学修士(MBA)を取得。知る人ぞ知る現代美術の老舗、美学校にも在籍していた。報われることのない釣り師。
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