私たちは古いインターネットのイメージモデルを引きずっている
私たちは無形のものを把握しようとするとき、とりあえずそのイメージを図式化したり数値に置き換えてグラフにしてみたりする。この目に見えないものを目に見えるようにするプロセス……、いわゆる「可視化」はほぼ間違いなく誰にでも喜ばれる。
企業が自社の顧客の動向や傾向など、不可視の要素を何とか可視化しようする試みはクリエイティブにもマーケティングにも欠くことのできない作業と言っていいだろう。
そして画期的な可視化に成功した際などには、その功労者は周囲から絶大な賞賛を浴びたりする。かくいう筆者も、プレゼンテーションのたびにこうした目に見えない情報を目に見える情報として表現することに腐心している。
この「可視化」は抽象的な対象を具象化し、複雑なものを簡潔に明示してくれるとても有効な手段のように思える。
しかし本当のところはむしろ真逆で、言葉の型には収まり切らない具体的なものを言葉の型に無理やり押し込めて観念化し、現実的なものを仮構的なものにすりかえ、豊穣な全体性を貧弱な部分性に切り刻む行為であることを忘れてはならない。
何かに焦点化することは何かを盲点化することであり、単純化はほとんどの場合、対象が持っている本質的なものを削り取ったり覆い隠したりしてしまう。
「可視化」の重要性や必要性は認めつつも、それはあくまでも便宜であり方便に過ぎないということを私たちは忘れがちだ。
インターネット(特にWWW)も誕生以来、この図示の呪縛にすっかり捕縛されてしまっているように思う。インターネットという目に見えない地球的な情報網、全世界に張り巡らされた神経系をイメージ化する時、私たちは無数の点と点を線で結ぶ非常にわかりやすいビジュアルを頭に思い描く。
ここでいう点とはもちろんメディア化した一人一人の人間であったり、パーソナルコンピュータなどのデジタルデバイスであったり、プロバイダーが保有するサーバだったりするわけで、それらを相互に連結し、壮大なひとつのネットワークを形成する一本一本の線をインターネットとして見立てている。

インターネットを説明する際によく用いられる一般的なイメージモデル。世界中に散逸する点(個々のユーザー、デジタル機器、サーバなど)をインターネットが直線で結ぶというもの