ロボットが単に人間の機能代行・機能拡張のためだけの存在なら、人型である必要も、感情(らしきもの)を持っている必要もない。たとえば、Amazonが発売した「Amazon Echo」。これは音声入力によって音楽をかけたり、家の中の家電をコントロールしたりすることができる、据え置きスピーカー型のデバイスだ。ある種の「生活アシストロボット」である。
ただ、Amazon Echoは米国で爆発的人気と報じられているものの、日本で発売されて人気が出るかどうかはわからない。電車や卵や切り身までキャラ化・擬人化してしまうこの国で、リンク先の動画のように無味乾燥なスピーカーにしゃべりかけることが、果たして抵抗なく受け入れられるかどうか。
OriHime(オリヒメ)(オリィ研究所ウェブサイトから引用)
吉藤オリィ氏のオリィ研究所が開発した「OriHime(オリヒメ)」は、日本人的感性に基づいた「ロボット」なのかもしれない。OriHimeは「子育てや単身赴任、入院など距離や身体的問題によって行きたいところに行けない人のもう一つの身体」(ウェブサイトより)であり、人の上半身を模したボディが繰り出す簡易的な身振り・手振りによって、遠隔地にいる操縦者の感情を表現できるようになっている。
なおOriHimeの表情は固定だが、無表情の能面にいくつもの喜怒哀楽を「見立て」てる文化のある日本ならでは、という気がしなくもない。
青木俊介氏の率いるユカイ工学の開発した「BOCCO」は、「スマートフォンのアプリと連動し、家にいる家族と気軽なメッセージのやりとりができます」(ウェブサイトより)という人形型のデバイス。
HPには「BOCCOは留守番中の子どもの見守りを助けるロボットです」とある。しかし、機能だけで言えば擬人化ロボットのフォルムである必然性はまったくない。それこそAmazon Echoのようにスピーカー然したデバイスでもいいはずだ。しかし、それでは一般家庭に受け入れられないだろう。少なくとも、日本では。
とはいえ、OriHimeもBOCCOも「人対人」のコミュニケーションをアシストする存在であって、完全な「バディ(相棒)」としてのロボットではない。では、ドラえもんやT-800やデイビッドのように愛されるバディとしてのロボットの要件とは、一体なんだろうか。完璧な判断力? 人間を凌駕する腕っぷし? 美しいデザイン? おそらく、どれも第一条件ではない。それは、「不完全さ」である。