私たちがいつか、私たち自らが作ったマシンの奴隷になるというのはありがちなストーリーであり、おそらくは私たちが本質的に抱いている不安でもあります。
「魔法使いの弟子」と呼ばれる詩は、1797年という早い時代におけるこの例であり、魔法使いの弟子が仕事を代わりにやらせようとホウキに魔法を掛けたが、そのホウキが手に負えなくなってしまったところが描かれています。魔法を掛けられたホウキが作り出した混乱の後始末には、最初に手伝ってもらったときの楽さをはるかに上回る手間がかかりました。
この物語は人工知能(AI)が「支配権を握り」、私たちが「マシンの勃興」の前にひれ伏すという、ディストピア的なSFへの道を拓きました。しかし、このような恐怖は理にかなったものでしょうか?
今日の私たちがすでにマシンをコントロールできなくなっているところを見れば、この恐怖は確かにもっともなものかもしれません。私たちはAIの未来について、その倫理的リスクの議論に時間を費やしますが、目の前に何があるかを見ようとはしていません。現実には今日の仕事の基盤となっているツールやソフトウェアはもはや人々に奉仕しておらず、私たちがそれらに奉仕しているのです。
まず問題とされたのはメールです。メールは当初は人気者でしたが、やがて厄介者となり、このことに人々が気付くまでには何と40年が費やされました。
メールは私たちが優先順位を決め、仕事に取りかかる場所ですが、個々のメールはしばしば見逃され、メッセージや電話でのフォローが余儀なくされます。このような状況を改善するためにはフラグ、タグ、フィルタ、フォルダ、検索、アラートが存在します。
今日ではメールの代替としてメッセージングサービス、チャンネル、コラボレーションツールなどが存在し、相手が見たことを確認するため仕事が二重にも三重にも増えています。今や必要とされているのは“スカイライティング(飛行機で空に広告メッセージなどを書くこと)”によるフォローです。
しかし問題はメールだけではありません。仕事に使うアプリケーションのほぼすべては、それ自身が仕事を作り出しています。
私たちの頭の中は、タブやドロップダウンメニューによる複雑な経路図と、仕事に必要だが、直感的ではない用語によって占められています。これがクリティカルマスに達した後は、それらに対応すること自体が仕事となります。この仕事は、それに奉仕する以外の目的を持たない仕事です。
最大の問題は(1)検索、(2)コンテキストの切り換え、(3)アプリケーションの過剰――という3つです。
検索
アプリケーションの検索に費やされる時間は、1週あたり1日と推定されています。しかし実際の状況はこれよりもさらに劣悪です。