Post-truthの安易な拒絶は巨大なブーメランとして戻って来る
Post-truthはなにも政治の世界に限った現象でなく、近年のインターネット上の言説がしばしば巻き起こす炎上騒動や混乱状態の根底にある事態をも表現した言葉であり、今後の私たちが「情報」というものにどう接していかなければならないかについて再考を促す重要なキーワードである。
これがまだインターネット第一四半世紀の段階にあれば「個人発=確証なし、企業発=確証あり」とか「一般人=根拠なし、有識者=根拠あり」とか「ソーシャルメディア=信憑性なし、マスメディア=信憑性あり」といった単純な尺度をもとに“現状の世論形成のプロセスはどこか間違っている”などと容易に断罪できたのかもしれない。
しかし、一般の個人のブログが企業にキュレーションされることによってメディアが成立したり、テレビや雑誌の主要なネタがソーシャルメディアに依拠しているという奇妙な共犯関係を見るにつけ、そう簡単に現況を肯定することも否定することもできないのではないだろうか。
インターネット上に濁流のごとく氾濫する玉石混交の情報に対する安易な拒絶は、オーディエンス=情報の発信者となったいま、前回の本稿でも触れたDeNA問題と同様、巨大なブーメランのようにあらゆる立場の人々のもとに返ってくる。
こうした従来から使用してきた価値判定の基準がことごとく有効性を失ってしまうのがまさにインターネット第二四半世紀の特徴だと言えるだろう。
今回はあまりにも横道に逸れてしまいそうなのであえて言及しないが、いま、世界を席巻している「ドナルド・トランプ的なるもの」の台頭も、インターネットがもたらした「保守vs.革新」や「右派vs.左派」といった旧来の二項対立の無効化を示す格好の事例である。
かつてバラク・オバマを大統領の座に押し上げたのもインターネットであり、同時に、トランプが大統領に就任する土壌を涵養(かんよう)したのもこれまたインターネットなのだ。
「ドナルド・トランプ的なるもの」がなぜ生まれたのか……? その背景にあるインターネットとの関連をいずれ本稿でも考察してみたいと思っている