ここで考えるに値するのが、「UIの違いによって、生み出される文章の質は変わってくるのか否か?」という問いだ。ゲームやクルマなら、コントローラの形状やハンドル・シフトの配置によって、プレイの精度や運転の優劣が変わってきそうなものだが……。
1980年代後半に日本語ワープロが普及しはじめた頃、一部の文筆家は「原稿用紙に万年筆で書かなければ魂がこもらない」と主張し、キーボード入力に不信感を抱いた。今では小説家がキーボードで文章を直接入力するのは普通だが、直筆による執筆とでは何かが違うのだろうか。ガラケー時代のトグル入力やスマホのフリック入力で全文が書かれた小説や、『her』のようにすべて音声入力で書かれた文章は、キーボード入力によるものと違ってくるのか?
結論から言おう。文章を書くことを生業にしている筆者の感覚からすれば、「すべて違う」と言っていい。同じ主張をするにしても、UIが変わればはっきりと違う文章ができあがる。
たとえばPCのテキストエディタの場合、画面サイズが大きいこともあって、書きながら直前の文章をパラグラフ単位で推敲できる。常に文章を客観視しながら書けるのだ。
スマホはPCのように長文の緻密な構成や推敲には向かないが、良い意味で近視眼的な、「勢い」のある文章を書ける。電車の乗り換え中に思いついた言い回しを、既存の文章にサッと入れ込めるといったメリットもある。ふと立ち現れた思考の断片が消えてしまう前に、漏れなくさらってテキスト化できるのだ。これが直筆や音声入力となれば、また違った記述特性があるだろう。
だとすると、まったく新しいUIはまったく新しいクリエイティブを生み出す可能性を秘めている。たとえば、先日はFacebookが進めている「脳から直接入力」という技術が話題になった。
脳に浮かんだ事象を、腕や指といった筋肉の物理的な動きを経由することなく、ロスタイムを限りなくゼロに近づけて情報として定着させられる……ワクワクするではないか。UIが違えば、今まで見たこともない作品ができあがる。それはきっと、文章に限らない。
『アイアンマン2』のようにホログラムを前提としたCADが使いやすいUIを備えて製品化されれば、見たこともない建築物がデザインされるかもしれない。新しい酒が飲みたければ、先に新しい革袋を用意するべきなのだ。
UIを人間に置き換えるなら、ズバリ「とっつきやすさ」だ。中身がどんなに賢くても、とっつきにくい人間には魅了されない。無愛想な賢人より、多少バカでも愛想のいい奴と一緒にいるほうが、人は快適な時間をすごせる。そしてなにより、快適な時間からは有意義な会話や斬新なアイデアが生まれる。
『her』の主人公は“サマンサ”がOSであることを忘れ、彼女の声やしゃべり方、気の利いたやり取り――つまりインターフェイスそのものに惚れた。かくいう筆者も、フリック入力というただ一点に魅せられて、かつてガラケーからiPhone 3GSにキャリアをまたいで乗り換えたクチだ。
インターフェイスはそれ単体で魅力を発し、人を行動に駆り立てる。UIはクリエイティブの命運を握るだけでなく、愛(着)まで抱かせるのだ。その証拠に、多くの男は無愛想な美人より愛想のいい……いや、なんでもない。
- 稲田豊史(いなだ・とよし)
- 編集者/ライター。キネマ旬報社でDVD業界誌編集長、書籍編集者を経て2013年よりフリーランス。
著書に『ドラがたり――のび太系男子と藤子・F・不二雄の時代』(PLANETS)、『セーラームーン世代の社会論』(すばる舎リンケージ)がある。
手がけた書籍は『ヤンキー経済消費の主役・新保守層の正体』(原田曜平・著/幻冬舎)構成、『パリピ経済パーティーピープルが市場を動かす』(原田曜平・著/新潮社)構成、評論誌『PLANETSVol.9』(第二次惑星開発委員会)共同編集、『あまちゃんメモリーズ』(文芸春秋)共同編集、『ヤンキーマンガガイドブック』(DUBOOKS)企画・編集、『押井言論 2012-2015』(押井守・著/サイゾー)編集など。 「サイゾー」「SPA!」ほかで執筆中。(詳細)